櫻井絹恵(15期生)

更新日時:2019年02月05日

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氏名 セブ日本人会
櫻井絹恵
職業
(役職等)
会長

謹んで新年のお慶びを申し上げます。2019年が鹿児島中央高校同窓会様の皆様、また恩師の皆様にとりまして、健康に恵まれ素晴らしい年となります様心よりお祈り致します。

私は14期生で入学、15期生で母校を卒業致しました櫻井絹恵です。現在セブ日本人会長をしております。ロータリークラブの交換留学奨学制度でアメリカ留学1年の機会を頂き休学した為留年致しました。お陰様で多くの友人に恵まれ、40年経った今も一時帰国するに度にプチ女子会をしております。同窓会の醍醐味はいくら年をとって生活環境が違っても、旧友達と会っている時は当時の女子高生に戻れる事です。Young at Heart❤でいつもありたい女子心には同窓会は最適です。

アメリカ、ロシア、フィリピンと海外生活40年になりますが、私は常に故郷鹿児島を想い、心の中で雄大な桜島の姿を描いています。「薩摩おごじょ」で慎ましい女性を意識しておりますが、在住35年になるフィリピンでは女性も大統領になれるウーマン上司社会。「郷に入れば郷に従え」で、基本的に主婦で会長としての器がないのは充分承知しておりますが、長年築いてきた現地社会とのネットワークとセブに居住した経験をフルに活かしセブ島の日本人社会に貢献する所存で会長職に4年就いております。


私は1983年セブに第一歩を踏み、1984年より在住しています。当時はマルコス独裁で戒厳令が敷かれていました。政府を公に非難すると軍に拉致され、拷問や死を覚悟しなければならなかった暗黒の時代です。1986年2月無血の人民革命後、コラソン・アキノ政権が発足しましたが、反乱軍による連続したクーデター事件、華僑や富裕層をターゲットとした誘拐事件が多発し、閑静な住宅地として知られた近所でも殺人事件が連続した時代で、フィリピン中が苦悩したアキノ政権時に幼い息子を連れての生活は大変なものでした。命が縮まる思いをしたのはある日曜早朝、比軍の大型トラック2台分の兵士とNPA自民解放前線ゲリラとの銃撃戦が2軒先で始まり、手榴弾投げあいが目前で始まった時でした。爆発音と鳴り止まない銃撃音は今でも耳に残っています。当時のセブには領事館はなく、藁にもすがりたい気持ちで日本人会に入ったものです。当時の日本はバブル期真っ盛りで若者はパラパラを踊っていた時代です。

JETRO発表の現在のフィリピンは6.7%のGDPでこの数年バブルとも見える経済成長です。それに反映し、メトロセブでも大型ショピングモールが各地でオープン、レストランや商業施設が急増し、多くの高層ビルやマンションの建築ラッシュが続いています。マニラと比較すると治安が良く、手軽にビーチリゾートやダイビングに行ける環境のセブでは英語学校も急増し語学留学銀座になりつつあります。メトロセブ地域に在住する人の在留邦人に加え日本人語学生人口は急増しています。特に正月休みなどのピーク時には3万人以上の日本人がセブ島に居住もしくは留学や観光で滞在しています。


以前はセブ日本人会は「親父の会」とか「敷居が高い」と散々言われてきましたが、若い人達にも敷居の低い開かれた会作りを目指しています。児童教育としてセブ補習授業校の運営に加え、日本人会活動として様々な活動を行なっています。定例総会、恒例の餅つき新年会、日本語スピーチコンテスト、日本語能力検定試験、大運動会、セブ観音での戦没者慰霊祭、巡回医療相談、日系企業見学、日本人墓地管理、タリサイやレイテ島慰霊、また日比友好の大きなイベントとして盆踊り大会や桜フェスティバルなどです。またホームページやFBの充実化を図り、オンタイムで会員様に安全情報や生活に役立つ情報、行事等の発信、またHP上で会報「セブ島通信」をお届けしております。セブ島通信のバックナンバーもいつでも読めるように設定してあります。

また、今年は5年連続して行った盆踊り大会に変わるイベントとして「桜フェスティバル」を3月9日及び10日、SMシーサイドのマウンテンビュー会場で行います。「盆踊り大会」が「動」に対し「桜フェスティバル」は「静」のイベントで伝統的な日本文化を表に出したイベントになります。日本菓子工業組合近畿ブロック青年部様に御協力頂き、和菓子界の鉄人で「極」のチャンピオンの松田氏をはじめ和菓子の職人さん達が多く参加して下さいます。また京都から表千家の茶道の先生方、芸術的な巻き物レジェンド講師による実演もございます。セブ島で本格的な和菓子とお茶を是非御堪能なさって下さい。また琴や琵琶など和楽器の演奏、日本舞踊、雛人形製造実演と雛人形ディスプレイ、華道、書道、盆栽の実演と展示、武道のデモンストレーションや補習授業校による折り紙ワークショップなど「和」を意識したイベントになります。盆踊り同様、テロ対策と食中毒に対しては細心な対策を講じ、安全には何よりも神経を使い、桜フェスティバルを行います。「盆踊り」がフィリピンの人達にブランド名として受け入れられ、日比友好の証として定着しておりますが、今年は形を変えて「桜フェスティバル」を行い更なる日比友好親善を深めて参ります。


私達が友好親善に拘る理由は先の大戦でフィリピンには悲惨な歴史背景があるからです。日本は1941年12月にアメリカの植民地だったフィリピンに将来の独立を約束するといって占領しました。国内内情を把握していなかった日本軍のフィリピン占領当初は、アメリカ軍にはアメリカ人兵士とフィリピン人兵士がおりました。占領後にゲリラ化したフィリピン兵が民衆に紛れ日本軍を襲い、日本兵は民衆とゲリラの見分けがつかず混乱し、フィリピンの一般人はゲリラと日本軍の板挟みになり大多数の犠牲者を出してしまいました。日本軍に追われオーストラリアに退却したアメリカは、海上から武器や資金を提供し、強硬になっていたフィリピンゲリラと日本軍のとの戦いは更に泥沼化し、地獄の戦いと化して行きました。

レイテ島やセブ島を始め、フィリピン全土で過酷で悲惨な戦いが行われました。フィリピンは東南アジアの沖縄とも言われ、外地では最大の51万8千人を超える日本人が命を落としました。しかし、当時の人口1630万人でのフィリピン側の死者は111万に及んでいて、当時の国民の16人に一人が亡くなっていることは日本ではあまり知られていません。誰も望んでいなかった戦争に何故多くの人々が戦争の渦に巻き込まれたのか、そこにはアメリカからの独立間近のフィリピンに日本が進軍した故の悲しい事実があります。

アキノ大統領主催の晩餐会での天皇陛下のお言葉です。
「貴国国内において日米両国間の熾烈な戦闘が行われ、貴国の多くの人が命を落とし傷つきました。私ども日本人が決して忘れてはならない事」
御言葉には陛下の思いが凝縮されています。私達は時の流れやフィリピン人の「許す」という寛大さに甘える事なく過去を心に刻む事を忘れてはなりません。 また忘れていけないのは、フィリピンには戦前、戦中、当時の貧しかった日本から多くの日本人がフィリピンに渡り商売やプランテーション経営を行い、フィリピン人女性と結婚し幸せな家庭を築いた事です。しかし戦争により全てが失われてしまいました。 戦争の混乱中、民間人でも日本人というだけで虐殺された時代で、赤ちゃんや子供までもが殺されました。戦後も日本人のアイデンティティを隠して必死に生き延び日系人の方々の御苦労は言葉では表せない非情なものです。

人の考えや社会情勢が日々変化していく中、天皇陛下御自身が憲法の下で天皇のあり方を考え続けられ、また被災地や遠隔地の御訪問や慰霊の旅を通じて実践されて来られました。3年前、フィリピンと日本の国交正常化60周年で国賓として天皇皇后両陛下がフィリピンを公式訪問されました時に私はフィリピン在留邦人代表の一人とし両陛下に謁見の栄誉を得ました。天皇皇后両陛下との御接見の栄誉は生涯の標であり、フィリピン御訪問の両陛下の思いを真摯に受け止め、長年この地に住むものとして日本人コミュニティ作りとフィリピン社会への友好に貢献に尽力して行く所存であります。両陛下の慰霊と日系人に対するお気持ちを深く受けとめ、セブ日本人会は毎年8月15日にセブ観音で行われている慰霊祭だけでなく、レイテ島やタリサイ、フエンテ野戦病院跡地においての慰霊も後世に恒久平和の誓いを引き継いでいく為に会の活動として取り組んで参ります。世界の流れが自国主義やヘイトスピーチを容認する動きがある今だからこそ戦争の悲惨さを語り継ぐ意義を感じます。


2019年は平成最後の年で、今春は4月30日の天皇陛下退位、そして5月1日は皇太子様御即位で日本の歴史にとって極めて重要な節目です。平成に変わる新年号で新たなスタートとなり、より一層気持ちを引き締めてこれからもセブ日本人社会への貢献とフィリピン社会との友好の架け橋となれる様日々精進して参ります。今回は鹿児島中央高等学校同窓会様に寄稿する機会を頂きました事を心より感謝致します。今後とも鹿児島中央高等学校で学んだ根性と知恵で地域貢献と日比友好親善に取り組んで参りますので宜しくお願い致します。