卒業生の活躍

鍵谷 謙吾(37期生)

更新日時:2023年07月13日

鍵谷 謙吾

氏名 鍵谷 謙吾
卒業期 37期生
職業 株式会社 昴
役職 教室長
部活動 サッカー部

鹿児島中央高校に進学した理由

学校の教員を目指すために国公立大学の進学者が多く、また、サッカー部の強い高校に行きたくて進学をしました。後で分かったことですが、かなりギリギリの点数で合格していました。入試当日の国語の記号問題が全てあっていたことが合格を引き寄せたと今でも思っています。(国語が苦手であった自分としては、当時通っていた昴和田校の先生に感謝しかありません。)

高校3年間の思い出

第一に浮かぶのは部活のサッカーです。小・中学校のときは弱小チームだったので、一度でいいので強いチームでサッカーをしたいという思いで、サッカーに打ち込みました。下手なりに努力はしました。レギュラーになれることはありませんでしたが、3年間最後まで諦めずにできたのは、同級生のおかげでした。今でも悔いは残っていません。
第二に浮かぶのは、朝5:30に起床し、6:18五位野駅発のJRに乗って中央高校に通ったことです。通学時間は片道約一時間(自宅から五位野駅まで10分、JRで30分、鹿児島中央駅から中央高校まで15分)、中学校のときの友人と一緒に三年間通いました。時間を有効に使うために、JRの中で日々題を終わらせたり、英語の小テストの勉強をしていました。(とはいうものの、宇宿駅くらいからは眠くて寝ていました・・・)

大学生活

自分の勉強不足のため、教育学部のある国公立大学への進学はできませんでした。しかし、不合格になったときに、自分を見つめなおす時間を作り、「浪人か?私立大学に行くか?」を真剣に悩みました。手続き終了の二日前に、大分県の別府大学に行くことを決めました。そのときの自分は、「浪人よりも、次のステージで夢をかなえよう」でした。別府大学に進学した理由は、歴史が好きで専門的な勉強をしてみたかったということと、教職課程のカリキュラムがあったからです。大学での勉強はそこそこしましたが、コンビニや旅館でのアルバイトを積極的にしました。20年以上たった今でも、別府に遊びに行ったら顔を見せに行き、自分の現状報告をしたりします。(自分が働いていたところはもう別な店舗等になっていますが・・・)
そして19歳のときに「サッカーの審判免許取得」が自分の人生を大きく変えたことだと言っても過言ではありません。初めはサッカーショップの知り合いに誘われたから続けていたことが、審判の楽しさや難しさを勉強する中で40歳になった今も現役で続けられています。

株式会社 昴での仕事

鍵谷 謙吾さん

鍵谷 謙吾さん

鍵谷 謙吾さん

延岡校~伊集院校~川内北校と赴任してきて、現在は14年目を迎えています。一番の思い出は、自分が中学校のときに和田校でお世話になった数学の先生と一緒の職場になったことでした。そして自分が教室責任者になり、「子どもたちのために」をモットーに、中学入試や高校入試の受験指導はもちろんのこと、学校のテストで良い結果を出すためにどのようにしていくのかなど、生徒・保護者と二人三脚で行っています。生徒たちが目標を達成したときに嬉しい顔を見ることができるときが一番、この仕事をしていて良かったと思う瞬間です。いつも生徒たちには、「結果を出すためには、他の人よりも何倍も努力をする必要がある」ことが大事だと話をし、生徒たちと接しています。常に全力で向き合っています。

サッカーの審判・インストラクターとして

19歳から始めた審判活動ですが、現在も審判活動は続けています。これ以外に、36歳からは広報活動としてHPに活動報告を掲載したり、39歳からは2級インストラクターとして、若手育成の手伝いをしています。最近ではシニアの審判委員長にもなり、本業の仕事以外も充実した日々を送ることが出来ています。

第58回同窓会総会・懇親会に向けて

懇親会は2019年以来、4年ぶりの開催です。テーマは「さいかい」です。これは、同窓生との「再会」、懇親会を「再開」することを掛けています。「今日参加して良かった。また来年も参加しよう」と言ってもらえるように、参加頂ける皆様が笑顔で、楽しんでもらえるようにするため、準備中です。8月12日(土)を楽しみにしていてください。同窓生の皆様の参加をお待ちしています。

後輩・現役生へのメッセージ

どんなことにおいても、楽しいこと、うれしいこと、苦しいこと、悔しいことが今後も色々でてきます。苦しいことや悔しいことから逃げ出すことをせず、それを楽しいことやうれしいことにするためには、「他の人よりも何倍も努力をする必要」があります。「努力は決して結果を裏切らない。」

中村 敏也(18期生)

更新日時:2020年01月30日

中村敏也さん

氏名 中村 敏也
卒業期 18期生
職業 株式会社高島屋 法人事業部

鹿児島中央高校に進学した理由

小学校から中学校まで、勉強もせずに明けても暮れても野球漬けでした。
中学3年生の時の秋の県大会での中央高校野球部の活躍を見たのが中央高校を選んだ理由でした。

在校時の思い出

入学してしばらくして、当時鹿児島県の陸上競技の強化部長をし、中央高校の教え子も多くの優秀な選手を育てていらっしゃった陸上部顧問の竹之内宏先生との出会いがありました。
野球を続けるつもりが、気がつけば陸上部へ入部。
すっかり竹之内先生の術中に はまってしまった私は、陸上競技に没頭していきました。
午後から公欠で授業を抜け出して鴨池の陸上競技場で練習することも多く、ますます勉強から遠ざかる日々(汗)。陸上部の仲間の多くは限られた時間で勉強もしっかりしていましたが、私は没頭するタイプでした(笑)。
竹之内先生が権限を最大活用し、私など陸上競技初心者なのに、県や九州の強化合宿への参加や実業団に出向いての練習、県下一周駅伝の鹿児島市チームの練習に加わるなどさせてくださいました。
「お前はやれば出来る。出来るんだ!」と繰り返し言われ、だんだんその気になっていきました(笑)。
陸上部の仲間とはとても長い時間を共に過ごし、お互いのことをほぼ全て知り合う仲でした。
仲間は今も宝物です。
恩師・竹之内宏先生との出会いも、その後の生き方に大きく影響しました。

大学進学から就職まで

神奈川大学経済学部経済学科に進学しました。
入学と同時に陸上競技部に入部。私の専門種目は800mで、高校の時に竹之内先生は私が800mで強くなれるように長い距離やスピード練習を課していましたが、大学では「箱根駅伝だろ。20kmを走れなきゃ!」と指導され、800mの練習とは程遠い練習メニューに困惑もしました。
神奈川大学は箱根駅伝に今年で51回出場していますが、私が入学する数年前から出場が途絶えており、箱根駅伝出場経験者の監督やOBたちが必死でした。
結局私も4年間箱根駅伝の予選会を走りましたが、チームが本戦に出場することは叶いませんでした。
国際金融論のゼミでしたが、教授の勧めの銀行には教授の書いた本を持って役員にご挨拶に行くだけで、試験は受けませんでした。
就職は百貨店の株式会社高島屋へ。
就職先を考えたときに、大学所在地の横浜で絶対的地域一番店の高島屋を最初に思いついたのが第一志望にしたきっかけでした。また、百貨店はあらゆる物を売ることが出来、そのとき旬な売れるものを常に売っていけば安泰だなと思いました。今はそういう時代でなくなってきているのは皆様もご存じの通りです(汗)。

私の転機、そして今

中村敏也さん

中村敏也さん

中村敏也さん

百貨店では売場に配属されるものと思っていましたが、私は入社と同時に今も所属する法人事業部という部署へ配属になりました。
主に、企業のセールスプロモーション活動のお手伝いをする部署です。私の社歴の半分近く携わってきたのは、某飲料メーカーのペットボトルや缶コーヒーにベタ付けされるキャラクターのフィギュアやミニチュアカー、応募抽選のコート(防寒着)や家電・音響機器などのオリジナルの景品を版権者への交渉から商品開発、生産、納品までをプロデュースするような営業の仕事です。
ほぼ100%海外生産を年間数十億円コンスタントに受注し続けていると、納期遅れや仕様違いなど大きなトラブルがいくつもあったり、激しく厳しい仕事でしたが、仲間と頑張り、乗り切ってきました。
しかし、飲料メーカーがベタ付け景品や応募抽選のキャンペーンをほぼ実施しなくなり、私は別の担当になりました。
そして私には少しだけ時間が出来るようになり、考える余裕も生まれました。
そうやって駆け抜けてきたサラリーマン人生でしたが、気がつけば自分もいい年齢になっており、これからは自分を育んでくれた両親や幼稚園から大学にまで恩返し活動をしていこうと思い、今は大学の後輩たちへの支援活動や高校の同窓会のお手伝い、故郷鹿児島関係への微力ながらの支援をさせていただいています。
さらに昨年秋からは、30年も封印していたランニングを始めました。恩返し活動で連日忙しいのですが、市民マラソンに出場したり、練習の時間も作ることにより、これまでとは違う多忙な日々を過ごしています(笑)。

後輩・現役生徒へのメッセージ

高校や大学時代、さらには社会人になってからも、そのときに自分が何をすべきかを自ら考えて行動してください。そのときにしか出来ないことはいくつもあります。勉強嫌いだった私が本当は言えることではありませんが、勉強もそうですね。そして、ご両親がお元気なうちにたくさん孝行してくださいね。

松下 愛(43期生)

更新日時:2019年09月20日

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氏名 松下 愛
職業 株式会社 南日本放送(MBC) レポーター
部活動 バスケットボール部

鹿児島中央高校に進学した理由

大学進学を考えていた中で、「鹿児島中央高校」という学校ブランドに憧れがありました。

そして、憧れのバス通学♪と思い受験を決めましたが、受験直前の模試まで合格判定はギリギリ!同じ塾の仲間と、夜遅くまで必死に受験勉強を頑張った思い出があります。

在校時の思い出

高校時代、仲の良かった化学の先生から私が呼ばれていたニックネームは「体育」!!
高校3年間は、とにかく楽しかった記憶しかありません。学校の成績は、授業についていくのがやっとのレベルでしたが、唯一みんなに得意だと自慢できた教科が「体育」でした。先生にニックネームの由来を聞いてみると、体育祭のリレーを走っていた私の足が速かったから…だそうです。個人的には気に入っていましたが、私が「体育」と呼ばれるのを周りが不思議そうな目で見ているのは面白く、たま~に恥ずかしかったことを覚えています(笑)

部活動は、小学校から続けていたバスケットボール部に入部。3年間切磋琢磨しあった仲間は今でもみんな仲良しで、定期的に連絡を取り合って、食事に行ったり遊びに行ったりしています。

大学進学から就職まで

小さい頃からスポーツをしていたことがきっかけで「スポーツ栄養学」に興味をもちました。
まずは管理栄養士の資格を取得するため、栄養学を学べる鹿児島純心女子大学に進学。卒業時に国家試験を受け、なんとか合格できました。卒業後は委託給食会社に就職して、栄養士の基礎となる業務を日々行っていました。

私の転機、そして今

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自分のスキルを上げたいと思い、栄養士として働いた会社を退職して転職活動を始めました。
「仕事が見つかるまで!」と飲食店でアルバイトを始めたのですが、仕事に慣れてきた頃、MBCのテレビ取材を、店のスタッフ代表で私が受けることに…。撮影の合間に「レポーターの仕事は、県内各地に足を運んで、それぞれの分野で活躍する人たちに話を聞き、それを伝えること。」という話を聴きました。その時、「この仕事をすることで自分の可能性を大きく広げられるかも…。そして何より楽しそうだ!」と思い、翌年、MBCラジオのポニーメイツ試験を受けました。好奇心旺盛な性格で、メディアの仕事にも興味があったので、自分の知らない世界を見られるかも!とワクワクしたことを覚えています。試験に合格した時、「夢を応援するよ」と背中を押して送り出してくれたアルバイト先の方々には、今でも本当に感謝しています。

ポニーメイツとして活動させていただいた2年間は、毎日たくさんの出会いがありました。ポニーメイツを卒業した今も、レポーターとして仕事を続けていて、憧れのプロスポーツ選手にインタビューさせていただいたり、栄養士の資格を活かして料理コーナーを担当させていただいたり、「これまで努力してきた事」や、「好きな事」、「自分の夢」が仕事に繋がって、楽しい毎日を送れていることに日々幸せを感じています。

後輩・現役生徒へのメッセージ

何も考えずに毎日を過ごしていると、時間はあっという間に過ぎていきます。人との出会いやご縁を大切に、今しか出来ないことは悔いを残さないよう、何事にも全力でチャレンジしてください!

私もまだまだ未熟なので、人としてもっと成長できるように、これからも努力を続けていきます。

東 智洋(36期生)

更新日時:2019年07月08日

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氏名 第54回同窓会総会実行委員長
東 智洋(ひがしともひろ)
勤務先 霧島市消防局中央消防署隼人分遣所
階級 消防士長
職名 救急分隊長(救急救命士)
部活動 バスケットボール部

鹿児島中央高校に進学した理由

学力に見合った学校で勉強とスポーツを両立できる学校だと思ったからです。中学校時代から鹿児島中央高校の前にある受験ラサールに通っていたこともあり、自然と鹿児島中央高校での学校生活を頭に思い描いていました。

母校での3年間

一番思い出すのは部活動です。1年生の時から公式戦にも出場させて頂きました。
早朝のゼロ限から始まる過酷なスケジュールをこなし、放課後に部活動、帰宅してから膨大な量の日々題に追われる環境で、みんな精神的にも体力的にとてもきつかったと思いますが、そんな環境でも互いに切磋琢磨し県のウインターカップ予選でベスト4に進出した時は涙を流して喜びました。部活動を通じて本当に最高の仲間に出会えたと思います。そんな彼らとは学校では常に一緒に過ごしていました。夏休みに私の吉野の実家に招いてバーベキューをし、夜中まで満点の星空を眺めながら将来を語り合ったことは今でも鮮明に覚えています。いまでも再会すると吉野でバーベキューしようよ!!と話題になるくらいです。彼らの存在は社会人となった今でも私の心の支えになってくれています。

勉強面では、入学後の最初の試験で、全体で29番の成績をとり、家庭訪問で九州大学も行けますよ!と担任の先生に言われ母親が喜んでくれたことを覚えています。しかし、その後、化学が苦手すぎて成績は急降下!!それでも部活を続けたい一心で勉強も頑張りました。睡眠時間の平均は3時間前後だったと思います。しごきの中央と言われ宿題も相当量あり、生活面でもかなり制約があり、とても厳しい学校生活ではありましたが、そのような思い出がより一層友人たちとのつながりを強いものにしてくれた気がします。

大学進学から就職まで

東智洋2

消防車

将来については父が鹿児島市役所に勤めていた影響もあり大学卒業後は市役所に勤めたいと、当時唯一専門的に地方自治を学べる群馬県の高崎経済大学に入学しました。専攻は政治学で主に選挙の仕組みや国民の投票行動を統計学的に研究していました。卒業論文は鹿児島県の行政評価システムの展望だったと思います。

そんな中、大学4年生の時に新潟中越地震が発生しました。当時住んでいた高崎市でも震度5強、隣県の新潟県では震度7を観測する大地震でした。この地震はただ人の役に立つ仕事に就きたいから市役所に入りたいと将来を漠然と考えていた私の大きな転機となる出来事でした。テレビを通じて次々と報道される悲惨な光景、救助に向かう警察・消防・自衛隊、いつのまにかテレビの前に釘付けになると同時に、何もできない自分に無力感を覚えたことを覚えています。以降は故郷の鹿児島に帰り消防職員になろうと決心し、大学卒業後に現在の霧島市消防局に入局しました。

霧島市消防局入局

隼人分遺所

消防局入局後は救急救命士の国家資格を取得し、現在は主に救急隊として勤務しております。救急救命士は医療機関で行うような根本的な治療はできませんが、傷病者に応急処置を施し、病態を把握したうえで適切な医療機関に傷病者を搬送するという基本的な役割を担っています。

しかし、時には心肺停止事案や生死の危機に瀕している傷病者に対して、医師の指示を仰いだうえで、静脈路確保やアドレナリン投与、気管内挿管といった特定行為と呼ばれる医療行為を実施することもあります。肉体的にも精神的にも負担の多い仕事ではありますが、人の命と真剣に向き合えることができるこの仕事に今は誇りとやりがいを持ち毎日を送っています。

第54回総会に向けて

私たち36期生はこれまで同窓会活動への参加は皆無でありました。前実行委員長の兒玉先輩とのつながりから実行委員長を引き継いだ時は不安で仕方ありませんでしたが、時間を重ねることで先輩方との距離も次第に縮まってきたように思えます。そして何より、総会に向けた準備期間のなかで同じ36期生と過ごす時間がとてもかけがえのないものに感じられます。多くの同窓生に参加して良かった、また来年も参加したいと思って頂ける素晴らしい総会にしたいと思っておりますので少しでも多くの方に足を運んで頂けたら嬉しいです。

さこうかよこ(13期生)

更新日時:2019年06月04日

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氏名 さこうかよこ
職業 ダンサー/振付師
部活動 吹奏楽部

中学生から高校生へ

「中央高校の合格率は50%だなぁ~、玉龍高校なら大丈夫だと思うよ。」と中3の担任に言われたのを覚えています。私の頭の中には志望校は中央高校しかなかったので、それに賭ける!と決意して、弟がやっていた新聞配達のバイトを一緒に始めました。しかも3年生の後半に!きっと自分に「喝」を入れたかったのでしょう。「あの制服を着たい!」という単純明快な理由だったのですが、落ちたらどうなるのか….というイメージを持たないまま、ボッケな決断をし、ラッキーにも合格通知をいただいたわけです。

晴れて鹿児島中央高校13期生として迎えられ、期待溢れる高校生活が始まりました。大好きな制服に袖を通した時は、本当に嬉しかったです。
加治屋町にある学校のすぐ近くで生まれ、小学2年生から吉野町に引っ越した私は、吉野中学校を卒業しました。当時(昭和40年代)の吉野は山、薮、田舎!というイメージしかなく、小中学校に行くにも畑のあぜ道を通ったものです。

現在の開けた吉野を一体誰が想像できたことでしょう!
That’s so amazing! 驚きと感謝です!

さておき、中央高校に進学したら演劇部に入る!と決めていました。しかし、入学してすぐに、吉野中学時代の吹奏楽部の先輩が勧誘にやって来ました。中学校の吹奏楽部時代はあまりにも高貴なイメージの先輩だったので、お話ししたこともほとんどなかったのですが、「さこうさん、吹奏楽部に入って!」とにこやかに誘われ、はい!と吹奏楽部に入部することに……! 運命の吹奏楽部でした。

同期13期に吉俣 良さん、12期には尾崎 晋也さん、11期に加塩 人嗣さんと、現在音楽家として大活躍している人たちがおり、他にも個性豊かな仲間たちが多勢いて、感受性豊かなteenager時代を彩ってくれました。クラスメイトも愉快な顔ぶれで、女子クラスはいつも笑いが絶えませんでした。

たまに男子クラスと一緒に授業を受ける時はウキウキドキドキが嬉しく、先生の言葉はほとんど頭に入ってなかったですね。可笑しなことがあれば、さっとイラストに描いてみんなに回したり、勉強しないことが成績にしっかり反映されていました。部活動や課外活動が楽しく、まさにユーミンの歌の世界のような学生時代でした。

勉強できないくせ弁論大会には選ばれて、在学中に2回九州大会に行ったこともあります。鹿児島県高等学校弁論大会優秀賞をいただき、長崎大会と沖縄大会に行きました。同伴した母が後々までも嬉しそうに語っていたのが印象的です。今でも「長崎県教育委員会賞」(昭和51年)というトロフィーが実家に飾ってあります。

進路決定

ほとんどの友人たちが大学進学する中、私には進学という選択肢はありませんでした。成績不振…それもありますが、それ以前に「舞台関係の方向に進みたい」という思いがあったからです。経験もないのに、俳優やパフォーマーといった舞台人に憧れていたのですね。東京にある舞台芸術専門学校の資料を取り寄せ(現在みたいにネットなんてないから全て郵送、情報収集も難しかった!)親に頼みましたが、まさか「YES」と言われるはずもありませんでした。教師になって欲しいと願っていた両親にとっては、娘の無謀な考えにただただ驚くばかり!

「仕方ない!鹿児島で就職してお金貯めて、自分の力で上京しよう!」と決めて就職することに。当時の担任の先生がご尽力してくださり、就職の面接試験の練習をやってくださいました。晴れて第一生命保険に内定!受験勉強に苦しむ友人たちより先に自由の身になりました。次は「将来のために身体を鍛えよう!」と決めモダンダンス研究所に入所し、これが本格的なダンスへの道に繋がって行ったわけです。

さこうかよこ2

ダンスレッスンに通う傍、仲代達矢さん主宰の「無名塾」のオーディションを受けました。単身上京し、ダメ元でいざチャレンジ!なんと700人くらいの中から30人くらいに絞られた中に入り二次試験に行けたのです!
That’s so fantastic!

二次試験では審査員の中に仲代達矢さん、奥様で演出家の宮崎恭子さん他5~6名がいて、私以外はみんなトレーニングしている俳優の卵みたいな人ばかりでした。結果は残念でしたが、若さの勢いで翌年も受験しました。なんと2回目も同じ結果!合点が行かなかった私は仲代氏に手紙を書き、「素人の私が二次試験まで行ったのはなぜですか?でも三次まで行けなかったのはなぜですか?」と問いました。さすがに本物俳優は違いますね、ちゃんと直筆で(毛筆!)ご丁寧な返信を下さいました。「鹿児島から来たダンスをやっている方でしたね、良く覚えています。… (中略)…ダンスを頑張って下さい。」と激励で結ばれていました。

若さは立ち直りも早い!
以降、鹿児島でOLをしながらダンスに勤しんだのです。それから3年後、OLを辞めダンスの助手やインストラクターへと進みました。

転機

人生はcuriosityが導いてくれる!と誰かの名言ではないのですが、好奇心によって思わぬ出会いや展開があるものです。ダンスインストラクターの頃、ダンスの恩師にロサンゼルスに行く機会をいただき、そのことが後のニューヨーク行きに繋がりました。ニューヨークの位置すらわからなかった私が、ひょんな出会いであんな大都会に27年も住むことになろうとは!That’s so interesting!

さこうかよこ3

ニューヨークに到着したのは1986年3月6日。祖母の命日。小雪が散らつくマンハッタンを薄手のコートを着て歩きました。当時のニューヨーカーはほとんど黒ずくめの服を着、細身で颯爽とストリートを闊歩し「カッコいい!」。ただでさえ英語がわからないのに、訛りの強い発音が聞き取れず焦りながらも、それでも期待で胸いっぱいでした。白いセントラルパークは、名画「ある愛の詩」がそのままそこにあり、今はなきワールドトレードセンターの方角が南だと知り、摩天楼の下にぽつねんと立つのが精一杯でした。

それから7年!Rod Rodgers Dance Companyに所属するまで、なかなかダンスもできず生活も四苦八苦しました。ブロードウェイのミュージカルなどいろんなオーディションも受けましたが、ダンスでいい線行っても歌で失格。英語で歌詞が伝わらないとだめなんですよね、当たり前だけど。

オフィスでの仕事もやりました。この経験で、ニューヨークの社会の仕組みやノウハウなどを大いに学びました。ダンサーも踊るだけでなく、コンピューターや事務ワークができないといけない時代。マンハッタンの超高級マンションやそこに住む人たち、シャープな雰囲気を持つWall Streetのビジネスマン、質素で堅実なオフィスワーカー、ニューヨークの底辺部を支えている移民の人たちなどなど、人々はこの魅惑の街にcome and go….

Rod Rodgers Dance Companyは、アメリカンモダンダンス界では老舗のダンスカンパニー。15年間ダンサーとして活動し、その間自分の作品を振り付けし発表するようになりました。今は亡きMr. Rod Rodgers (ロッド ロジャーズ)にお世話になり、パフォーマーとして多くを学びました。
その後、パートナーと「くろたま企画」というグループを設立し、パフォーミングアーツの活動を行なってきました。2011年にはバイリンガル劇「Kutsukake Tokijiro」をオフ・オフ・ブロードウェイで3週間公演し成功させ、その他東日本大震災復興支援イベントや朗読劇、ワークショップなどに取り組んできました。

介護 Part of My Life

平成の大部分をニューヨークで過ごした私に、2013年1月に「母倒れる!」という実家の大事件でchangeが訪れました。初めの1年は無我夢中。どうやって母の命を助けられるか、どうやってもう一度父と暮らせるようにできるか….医師たちと話し、理学療法士や作業療法士に学び、必死でした。

その甲斐あって、母を家に連れ戻すという願いは叶いました。母は以前の母とはだいぶ違っていましたが、それでも家族のことはしっかりわかりました。

そして母を見送った後、一人残された父のケア…..「これも私の人生の一部なんだ」と思えるには時間が掛かりましたが、That’s reality!

令和元年TOKIJIRO

さこうかよこ4

自分のやるべき事を、介護で埋没させてはいけない!との思いが強く、2014年‐2015年にダンスパフォーマンス「女のことば」を公演しました。鹿児島の素晴らしいダンサーたちが一緒に舞台を創ってくれました。そして2019 年、令和となった記念すべき年に「ニューヨーク発バイリンガル劇TOKIJIRO」を公演開催予定です。日本語と英語のセリフ、ダンス、ムーブメント、そしてライブミュージックを織り交ぜた、This is the Entertainment Human Drama!

演劇会場としてはレアな、北ふ頭1号上屋という倉庫での開催です。
ニューヨークから来鹿予定の俳優たちと、鹿児島のアーティストたちが北埠頭に新しい風を吹かせます。Just Go for It!

I’m proud of….

十代の頃、中央高校に行く!と決め、今こうしてこのサイトに自分の半世紀以上のストーリーが掲載されるご縁に感謝いたします。鹿児島中央高校生だったことに誇りを持ち、いつまでも大切にしたいと思います。最後まで読んでいただき、ありがとうございます!


TOKIJIRO鹿児島公演サイト

https://www.tokijiro-jp.com

TOKIJIRO PR動画

https://www.youtube.com/watch?v=YmVqd8nlxOI

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