卒業生の活躍

東 智洋(36期生)

更新日時:2019年07月08日

東智洋1

氏名 第54回同窓会総会実行委員長
東 智洋(ひがしともひろ)
勤務先 霧島市消防局中央消防署隼人分遣所
階級 消防士長
職名 救急分隊長(救急救命士)
部活動 バスケットボール部

鹿児島中央高校に進学した理由

学力に見合った学校で勉強とスポーツを両立できる学校だと思ったからです。中学校時代から鹿児島中央高校の前にある受験ラサールに通っていたこともあり、自然と鹿児島中央高校での学校生活を頭に思い描いていました。

母校での3年間

一番思い出すのは部活動です。1年生の時から公式戦にも出場させて頂きました。
早朝のゼロ限から始まる過酷なスケジュールをこなし、放課後に部活動、帰宅してから膨大な量の日々題に追われる環境で、みんな精神的にも体力的にとてもきつかったと思いますが、そんな環境でも互いに切磋琢磨し県のウインターカップ予選でベスト4に進出した時は涙を流して喜びました。部活動を通じて本当に最高の仲間に出会えたと思います。そんな彼らとは学校では常に一緒に過ごしていました。夏休みに私の吉野の実家に招いてバーベキューをし、夜中まで満点の星空を眺めながら将来を語り合ったことは今でも鮮明に覚えています。いまでも再会すると吉野でバーベキューしようよ!!と話題になるくらいです。彼らの存在は社会人となった今でも私の心の支えになってくれています。

勉強面では、入学後の最初の試験で、全体で29番の成績をとり、家庭訪問で九州大学も行けますよ!と担任の先生に言われ母親が喜んでくれたことを覚えています。しかし、その後、化学が苦手すぎて成績は急降下!!それでも部活を続けたい一心で勉強も頑張りました。睡眠時間の平均は3時間前後だったと思います。しごきの中央と言われ宿題も相当量あり、生活面でもかなり制約があり、とても厳しい学校生活ではありましたが、そのような思い出がより一層友人たちとのつながりを強いものにしてくれた気がします。

大学進学から就職まで

東智洋2

消防車

将来については父が鹿児島市役所に勤めていた影響もあり大学卒業後は市役所に勤めたいと、当時唯一専門的に地方自治を学べる群馬県の高崎経済大学に入学しました。専攻は政治学で主に選挙の仕組みや国民の投票行動を統計学的に研究していました。卒業論文は鹿児島県の行政評価システムの展望だったと思います。

そんな中、大学4年生の時に新潟中越地震が発生しました。当時住んでいた高崎市でも震度5強、隣県の新潟県では震度7を観測する大地震でした。この地震はただ人の役に立つ仕事に就きたいから市役所に入りたいと将来を漠然と考えていた私の大きな転機となる出来事でした。テレビを通じて次々と報道される悲惨な光景、救助に向かう警察・消防・自衛隊、いつのまにかテレビの前に釘付けになると同時に、何もできない自分に無力感を覚えたことを覚えています。以降は故郷の鹿児島に帰り消防職員になろうと決心し、大学卒業後に現在の霧島市消防局に入局しました。

霧島市消防局入局

隼人分遺所

消防局入局後は救急救命士の国家資格を取得し、現在は主に救急隊として勤務しております。救急救命士は医療機関で行うような根本的な治療はできませんが、傷病者に応急処置を施し、病態を把握したうえで適切な医療機関に傷病者を搬送するという基本的な役割を担っています。

しかし、時には心肺停止事案や生死の危機に瀕している傷病者に対して、医師の指示を仰いだうえで、静脈路確保やアドレナリン投与、気管内挿管といった特定行為と呼ばれる医療行為を実施することもあります。肉体的にも精神的にも負担の多い仕事ではありますが、人の命と真剣に向き合えることができるこの仕事に今は誇りとやりがいを持ち毎日を送っています。

第54回総会に向けて

私たち36期生はこれまで同窓会活動への参加は皆無でありました。前実行委員長の兒玉先輩とのつながりから実行委員長を引き継いだ時は不安で仕方ありませんでしたが、時間を重ねることで先輩方との距離も次第に縮まってきたように思えます。そして何より、総会に向けた準備期間のなかで同じ36期生と過ごす時間がとてもかけがえのないものに感じられます。多くの同窓生に参加して良かった、また来年も参加したいと思って頂ける素晴らしい総会にしたいと思っておりますので少しでも多くの方に足を運んで頂けたら嬉しいです。

さこうかよこ(13期生)

更新日時:2019年06月04日

さこうかよこ1
氏名 さこうかよこ
職業 ダンサー/振付師
部活動 吹奏楽部

中学生から高校生へ

「中央高校の合格率は50%だなぁ~、玉龍高校なら大丈夫だと思うよ。」と中3の担任に言われたのを覚えています。私の頭の中には志望校は中央高校しかなかったので、それに賭ける!と決意して、弟がやっていた新聞配達のバイトを一緒に始めました。しかも3年生の後半に!きっと自分に「喝」を入れたかったのでしょう。「あの制服を着たい!」という単純明快な理由だったのですが、落ちたらどうなるのか….というイメージを持たないまま、ボッケな決断をし、ラッキーにも合格通知をいただいたわけです。

晴れて鹿児島中央高校13期生として迎えられ、期待溢れる高校生活が始まりました。大好きな制服に袖を通した時は、本当に嬉しかったです。 加治屋町にある学校のすぐ近くで生まれ、小学2年生から吉野町に引っ越した私は、吉野中学校を卒業しました。当時(昭和40年代)の吉野は山、薮、田舎!というイメージしかなく、小中学校に行くにも畑のあぜ道を通ったものです。

現在の開けた吉野を一体誰が想像できたことでしょう!
That’s so amazing! 驚きと感謝です!

さておき、中央高校に進学したら演劇部に入る!と決めていました。しかし、入学してすぐに、吉野中学時代の吹奏楽部の先輩が勧誘にやって来ました。中学校の吹奏楽部時代はあまりにも高貴なイメージの先輩だったので、お話ししたこともほとんどなかったのですが、「さこうさん、吹奏楽部に入って!」とにこやかに誘われ、はい!と吹奏楽部に入部することに……! 運命の吹奏楽部でした。

同期13期に吉俣 良さん、12期には尾崎 晋也さん、11期に加塩 人嗣さんと、現在音楽家として大活躍している人たちがおり、他にも個性豊かな仲間たちが多勢いて、感受性豊かなteenager時代を彩ってくれました。クラスメイトも愉快な顔ぶれで、女子クラスはいつも笑いが絶えませんでした。

たまに男子クラスと一緒に授業を受ける時はウキウキドキドキが嬉しく、先生の言葉はほとんど頭に入ってなかったですね。可笑しなことがあれば、さっとイラストに描いてみんなに回したり、勉強しないことが成績にしっかり反映されていました。部活動や課外活動が楽しく、まさにユーミンの歌の世界のような学生時代でした。

勉強できないくせ弁論大会には選ばれて、在学中に2回九州大会に行ったこともあります。鹿児島県高等学校弁論大会優秀賞をいただき、長崎大会と沖縄大会に行きました。同伴した母が後々までも嬉しそうに語っていたのが印象的です。今でも「長崎県教育委員会賞」(昭和51年)というトロフィーが実家に飾ってあります。

進路決定

ほとんどの友人たちが大学進学する中、私には進学という選択肢はありませんでした。成績不振…それもありますが、それ以前に「舞台関係の方向に進みたい」という思いがあったからです。経験もないのに、俳優やパフォーマーといった舞台人に憧れていたのですね。東京にある舞台芸術専門学校の資料を取り寄せ(現在みたいにネットなんてないから全て郵送、情報収集も難しかった!)親に頼みましたが、まさか「YES」と言われるはずもありませんでした。教師になって欲しいと願っていた両親にとっては、娘の無謀な考えにただただ驚くばかり!

「仕方ない!鹿児島で就職してお金貯めて、自分の力で上京しよう!」と決めて就職することに。当時の担任の先生がご尽力してくださり、就職の面接試験の練習をやってくださいました。晴れて第一生命保険に内定!受験勉強に苦しむ友人たちより先に自由の身になりました。次は「将来のために身体を鍛えよう!」と決めモダンダンス研究所に入所し、これが本格的なダンスへの道に繋がって行ったわけです。

さこうかよこ2

ダンスレッスンに通う傍、仲代達矢さん主宰の「無名塾」のオーディションを受けました。単身上京し、ダメ元でいざチャレンジ!なんと700人くらいの中から30人くらいに絞られた中に入り二次試験に行けたのです!
That’s so fantastic!

二次試験では審査員の中に仲代達矢さん、奥様で演出家の宮崎恭子さん他5~6名がいて、私以外はみんなトレーニングしている俳優の卵みたいな人ばかりでした。結果は残念でしたが、若さの勢いで翌年も受験しました。なんと2回目も同じ結果!合点が行かなかった私は仲代氏に手紙を書き、「素人の私が二次試験まで行ったのはなぜですか?でも三次まで行けなかったのはなぜですか?」と問いました。さすがに本物俳優は違いますね、ちゃんと直筆で(毛筆!)ご丁寧な返信を下さいました。「鹿児島から来たダンスをやっている方でしたね、良く覚えています。… (中略)…ダンスを頑張って下さい。」と激励で結ばれていました。

若さは立ち直りも早い!
以降、鹿児島でOLをしながらダンスに勤しんだのです。それから3年後、OLを辞めダンスの助手やインストラクターへと進みました。

転機

人生はcuriosityが導いてくれる!と誰かの名言ではないのですが、好奇心によって思わぬ出会いや展開があるものです。ダンスインストラクターの頃、ダンスの恩師にロサンゼルスに行く機会をいただき、そのことが後のニューヨーク行きに繋がりました。ニューヨークの位置すらわからなかった私が、ひょんな出会いであんな大都会に27年も住むことになろうとは!That’s so interesting!

さこうかよこ3

ニューヨークに到着したのは1986年3月6日。祖母の命日。小雪が散らつくマンハッタンを薄手のコートを着て歩きました。当時のニューヨーカーはほとんど黒ずくめの服を着、細身で颯爽とストリートを闊歩し「カッコいい!」。ただでさえ英語がわからないのに、訛りの強い発音が聞き取れず焦りながらも、それでも期待で胸いっぱいでした。白いセントラルパークは、名画「ある愛の詩」がそのままそこにあり、今はなきワールドトレードセンターの方角が南だと知り、摩天楼の下にぽつねんと立つのが精一杯でした。

それから7年!Rod Rodgers Dance Companyに所属するまで、なかなかダンスもできず生活も四苦八苦しました。ブロードウェイのミュージカルなどいろんなオーディションも受けましたが、ダンスでいい線行っても歌で失格。英語で歌詞が伝わらないとだめなんですよね、当たり前だけど。

オフィスでの仕事もやりました。この経験で、ニューヨークの社会の仕組みやノウハウなどを大いに学びました。ダンサーも踊るだけでなく、コンピューターや事務ワークができないといけない時代。マンハッタンの超高級マンションやそこに住む人たち、シャープな雰囲気を持つWall Streetのビジネスマン、質素で堅実なオフィスワーカー、ニューヨークの底辺部を支えている移民の人たちなどなど、人々はこの魅惑の街にcome and go….

Rod Rodgers Dance Companyは、アメリカンモダンダンス界では老舗のダンスカンパニー。15年間ダンサーとして活動し、その間自分の作品を振り付けし発表するようになりました。今は亡きMr. Rod Rodgers (ロッド ロジャーズ)にお世話になり、パフォーマーとして多くを学びました。 その後、パートナーと「くろたま企画」というグループを設立し、パフォーミングアーツの活動を行なってきました。2011年にはバイリンガル劇「Kutsukake Tokijiro」をオフ・オフ・ブロードウェイで3週間公演し成功させ、その他東日本大震災復興支援イベントや朗読劇、ワークショップなどに取り組んできました。

介護 Part of My Life

平成の大部分をニューヨークで過ごした私に、2013年1月に「母倒れる!」という実家の大事件でchangeが訪れました。初めの1年は無我夢中。どうやって母の命を助けられるか、どうやってもう一度父と暮らせるようにできるか….医師たちと話し、理学療法士や作業療法士に学び、必死でした。

その甲斐あって、母を家に連れ戻すという願いは叶いました。母は以前の母とはだいぶ違っていましたが、それでも家族のことはしっかりわかりました。

そして母を見送った後、一人残された父のケア…..「これも私の人生の一部なんだ」と思えるには時間が掛かりましたが、That’s reality!

令和元年TOKIJIRO

さこうかよこ4

自分のやるべき事を、介護で埋没させてはいけない!との思いが強く、2014年‐2015年にダンスパフォーマンス「女のことば」を公演しました。鹿児島の素晴らしいダンサーたちが一緒に舞台を創ってくれました。そして2019 年、令和となった記念すべき年に「ニューヨーク発バイリンガル劇TOKIJIRO」を公演開催予定です。日本語と英語のセリフ、ダンス、ムーブメント、そしてライブミュージックを織り交ぜた、This is the Entertainment Human Drama!

演劇会場としてはレアな、北ふ頭1号上屋という倉庫での開催です。
ニューヨークから来鹿予定の俳優たちと、鹿児島のアーティストたちが北埠頭に新しい風を吹かせます。Just Go for It!

I’m proud of….

十代の頃、中央高校に行く!と決め、今こうしてこのサイトに自分の半世紀以上のストーリーが掲載されるご縁に感謝いたします。鹿児島中央高校生だったことに誇りを持ち、いつまでも大切にしたいと思います。最後まで読んでいただき、ありがとうございます!


TOKIJIRO鹿児島公演サイト

https://www.tokijiro-jp.com

TOKIJIRO PR動画

https://www.youtube.com/watch?v=YmVqd8nlxOI

和田明(41期生)

更新日時:2019年03月14日

和田明1

和田明2

氏名 和田明
職業 ジャズシンガー
部活動 1年 – ソフトテニス
2年 – 帰宅部
3年 – 美術部

進学理由

学力に見合った公立高校だったことと、文化祭でロックバンドのライブをやっていたことが理由です。

 

在校時の思い出

三年間で熱心になったのは、バンド活動、応援団、受験勉強(絵画の実技含む)の3つだ。

バンド活動

中学の頃からパンクバンドでギターを弾きたかったが、趣味の合う友人を見つけることができずにいた。幸運にも、高校に入学して数日のうちに他クラスのベーシストと知り合うことができ、他校のシンガー、ドラマーを加えて三年間活動した。よく集まり、よく話し、喧嘩のようなライブをし、無敵の四人であった。

一年の時に文化祭でやったライブ。今思えば、あれが僕の人生の始まりだった。周りの僕を見る目がガラッと変わった。音楽がくれた自信。それは思春期にまだ片足を突っ込んでいて、精神的な土台の無かった僕にとってはとても大切な出来事だった。二年の時には体育館の床が抜てししまうほど盛り上がり(半分の面積が使えなくなった)、三年の時は受験勉強のためとイベントへの参加が縮小されるのだが、担任の理解があり、秘密で教室ライブをさせてもらった。

10代後半の有り余る「何かしてやりたい」気持ちを、全てぶつけていた。とてもいい経験だったと思う。

応援団

僕は父がドラムをやっていた影響で、手で机などを叩く癖があった。体育祭で見た先輩が打ち鳴らす応援団の太鼓に、その実利性を見たのだった。僕たちの代は、難しすぎて踊られなくなっていた「一閃(いっせん)」と言う演目を復活させた。二年時から最後まで在籍し、今でも時々顔を合わせて話をする仲だ。

受験勉強

二年の学年末までは360人中356位前後の成績だったが、三年の時に心を入れ替え、ようやく進学校の生徒らしくなった。焦りのパワーは凄まじく、最終的にはクラス一位を取るほどまでになった。進路希望は、数学の自習中に因数分解を解くでもなく解いている時に思いついた美術系。夏から実技のデッサンを始め、何とか間に合った。

 

現在

NYに短期渡米後、拠点を都内に移し、ジャズシンガーとして活動中。

-歌ったTVCM-

https://www.youtube.com/playlist?list=PLq9ucBroxM1ChIQph9ZGLY2kfe_fQ1y6f

-劇中歌-

https://youtu.be/SNfU5PIO0M4

-弾き語り-

https://youtu.be/TNbQq-EOAcg

 

メッセージ

好きこそ物の上手なれ。人生を通して好きでいれるものを見つけて、どんな分野であれ、本質的なクオリティのものを継続して残していける「一流」を目指せば、充実します。探してみてください。

アイコン 和田明が歌ったCM。 – YouTube

よろしくお願いいたします。

櫻井絹恵(15期生)

更新日時:2019年02月05日

櫻井絹恵1 櫻井絹恵2
氏名 セブ日本人会
櫻井絹恵
職業
(役職等)
会長

謹んで新年のお慶びを申し上げます。2019年が鹿児島中央高校同窓会様の皆様、また恩師の皆様にとりまして、健康に恵まれ素晴らしい年となります様心よりお祈り致します。

私は14期生で入学、15期生で母校を卒業致しました櫻井絹恵です。現在セブ日本人会長をしております。ロータリークラブの交換留学奨学制度でアメリカ留学1年の機会を頂き休学した為留年致しました。お陰様で多くの友人に恵まれ、40年経った今も一時帰国するに度にプチ女子会をしております。同窓会の醍醐味はいくら年をとって生活環境が違っても、旧友達と会っている時は当時の女子高生に戻れる事です。Young at Heart❤でいつもありたい女子心には同窓会は最適です。

アメリカ、ロシア、フィリピンと海外生活40年になりますが、私は常に故郷鹿児島を想い、心の中で雄大な桜島の姿を描いています。「薩摩おごじょ」で慎ましい女性を意識しておりますが、在住35年になるフィリピンでは女性も大統領になれるウーマン上司社会。「郷に入れば郷に従え」で、基本的に主婦で会長としての器がないのは充分承知しておりますが、長年築いてきた現地社会とのネットワークとセブに居住した経験をフルに活かしセブ島の日本人社会に貢献する所存で会長職に4年就いております。


私は1983年セブに第一歩を踏み、1984年より在住しています。当時はマルコス独裁で戒厳令が敷かれていました。政府を公に非難すると軍に拉致され、拷問や死を覚悟しなければならなかった暗黒の時代です。1986年2月無血の人民革命後、コラソン・アキノ政権が発足しましたが、反乱軍による連続したクーデター事件、華僑や富裕層をターゲットとした誘拐事件が多発し、閑静な住宅地として知られた近所でも殺人事件が連続した時代で、フィリピン中が苦悩したアキノ政権時に幼い息子を連れての生活は大変なものでした。命が縮まる思いをしたのはある日曜早朝、比軍の大型トラック2台分の兵士とNPA自民解放前線ゲリラとの銃撃戦が2軒先で始まり、手榴弾投げあいが目前で始まった時でした。爆発音と鳴り止まない銃撃音は今でも耳に残っています。当時のセブには領事館はなく、藁にもすがりたい気持ちで日本人会に入ったものです。当時の日本はバブル期真っ盛りで若者はパラパラを踊っていた時代です。

JETRO発表の現在のフィリピンは6.7%のGDPでこの数年バブルとも見える経済成長です。それに反映し、メトロセブでも大型ショピングモールが各地でオープン、レストランや商業施設が急増し、多くの高層ビルやマンションの建築ラッシュが続いています。マニラと比較すると治安が良く、手軽にビーチリゾートやダイビングに行ける環境のセブでは英語学校も急増し語学留学銀座になりつつあります。メトロセブ地域に在住する人の在留邦人に加え日本人語学生人口は急増しています。特に正月休みなどのピーク時には3万人以上の日本人がセブ島に居住もしくは留学や観光で滞在しています。


以前はセブ日本人会は「親父の会」とか「敷居が高い」と散々言われてきましたが、若い人達にも敷居の低い開かれた会作りを目指しています。児童教育としてセブ補習授業校の運営に加え、日本人会活動として様々な活動を行なっています。定例総会、恒例の餅つき新年会、日本語スピーチコンテスト、日本語能力検定試験、大運動会、セブ観音での戦没者慰霊祭、巡回医療相談、日系企業見学、日本人墓地管理、タリサイやレイテ島慰霊、また日比友好の大きなイベントとして盆踊り大会や桜フェスティバルなどです。またホームページやFBの充実化を図り、オンタイムで会員様に安全情報や生活に役立つ情報、行事等の発信、またHP上で会報「セブ島通信」をお届けしております。セブ島通信のバックナンバーもいつでも読めるように設定してあります。

また、今年は5年連続して行った盆踊り大会に変わるイベントとして「桜フェスティバル」を3月9日及び10日、SMシーサイドのマウンテンビュー会場で行います。「盆踊り大会」が「動」に対し「桜フェスティバル」は「静」のイベントで伝統的な日本文化を表に出したイベントになります。日本菓子工業組合近畿ブロック青年部様に御協力頂き、和菓子界の鉄人で「極」のチャンピオンの松田氏をはじめ和菓子の職人さん達が多く参加して下さいます。また京都から表千家の茶道の先生方、芸術的な巻き物レジェンド講師による実演もございます。セブ島で本格的な和菓子とお茶を是非御堪能なさって下さい。また琴や琵琶など和楽器の演奏、日本舞踊、雛人形製造実演と雛人形ディスプレイ、華道、書道、盆栽の実演と展示、武道のデモンストレーションや補習授業校による折り紙ワークショップなど「和」を意識したイベントになります。盆踊り同様、テロ対策と食中毒に対しては細心な対策を講じ、安全には何よりも神経を使い、桜フェスティバルを行います。「盆踊り」がフィリピンの人達にブランド名として受け入れられ、日比友好の証として定着しておりますが、今年は形を変えて「桜フェスティバル」を行い更なる日比友好親善を深めて参ります。


私達が友好親善に拘る理由は先の大戦でフィリピンには悲惨な歴史背景があるからです。日本は1941年12月にアメリカの植民地だったフィリピンに将来の独立を約束するといって占領しました。国内内情を把握していなかった日本軍のフィリピン占領当初は、アメリカ軍にはアメリカ人兵士とフィリピン人兵士がおりました。占領後にゲリラ化したフィリピン兵が民衆に紛れ日本軍を襲い、日本兵は民衆とゲリラの見分けがつかず混乱し、フィリピンの一般人はゲリラと日本軍の板挟みになり大多数の犠牲者を出してしまいました。日本軍に追われオーストラリアに退却したアメリカは、海上から武器や資金を提供し、強硬になっていたフィリピンゲリラと日本軍のとの戦いは更に泥沼化し、地獄の戦いと化して行きました。

レイテ島やセブ島を始め、フィリピン全土で過酷で悲惨な戦いが行われました。フィリピンは東南アジアの沖縄とも言われ、外地では最大の51万8千人を超える日本人が命を落としました。しかし、当時の人口1630万人でのフィリピン側の死者は111万に及んでいて、当時の国民の16人に一人が亡くなっていることは日本ではあまり知られていません。誰も望んでいなかった戦争に何故多くの人々が戦争の渦に巻き込まれたのか、そこにはアメリカからの独立間近のフィリピンに日本が進軍した故の悲しい事実があります。

アキノ大統領主催の晩餐会での天皇陛下のお言葉です。
「貴国国内において日米両国間の熾烈な戦闘が行われ、貴国の多くの人が命を落とし傷つきました。私ども日本人が決して忘れてはならない事」
御言葉には陛下の思いが凝縮されています。私達は時の流れやフィリピン人の「許す」という寛大さに甘える事なく過去を心に刻む事を忘れてはなりません。 また忘れていけないのは、フィリピンには戦前、戦中、当時の貧しかった日本から多くの日本人がフィリピンに渡り商売やプランテーション経営を行い、フィリピン人女性と結婚し幸せな家庭を築いた事です。しかし戦争により全てが失われてしまいました。 戦争の混乱中、民間人でも日本人というだけで虐殺された時代で、赤ちゃんや子供までもが殺されました。戦後も日本人のアイデンティティを隠して必死に生き延び日系人の方々の御苦労は言葉では表せない非情なものです。

人の考えや社会情勢が日々変化していく中、天皇陛下御自身が憲法の下で天皇のあり方を考え続けられ、また被災地や遠隔地の御訪問や慰霊の旅を通じて実践されて来られました。3年前、フィリピンと日本の国交正常化60周年で国賓として天皇皇后両陛下がフィリピンを公式訪問されました時に私はフィリピン在留邦人代表の一人とし両陛下に謁見の栄誉を得ました。天皇皇后両陛下との御接見の栄誉は生涯の標であり、フィリピン御訪問の両陛下の思いを真摯に受け止め、長年この地に住むものとして日本人コミュニティ作りとフィリピン社会への友好に貢献に尽力して行く所存であります。両陛下の慰霊と日系人に対するお気持ちを深く受けとめ、セブ日本人会は毎年8月15日にセブ観音で行われている慰霊祭だけでなく、レイテ島やタリサイ、フエンテ野戦病院跡地においての慰霊も後世に恒久平和の誓いを引き継いでいく為に会の活動として取り組んで参ります。世界の流れが自国主義やヘイトスピーチを容認する動きがある今だからこそ戦争の悲惨さを語り継ぐ意義を感じます。


2019年は平成最後の年で、今春は4月30日の天皇陛下退位、そして5月1日は皇太子様御即位で日本の歴史にとって極めて重要な節目です。平成に変わる新年号で新たなスタートとなり、より一層気持ちを引き締めてこれからもセブ日本人社会への貢献とフィリピン社会との友好の架け橋となれる様日々精進して参ります。今回は鹿児島中央高等学校同窓会様に寄稿する機会を頂きました事を心より感謝致します。今後とも鹿児島中央高等学校で学んだ根性と知恵で地域貢献と日比友好親善に取り組んで参りますので宜しくお願い致します。

篠原啓祐(33期生)

更新日時:2018年11月16日

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氏名 日本貿易振興機構
(ジェトロ)ハノイ事務所
篠原啓祐
職業(役職等) 団体職員(事業チーム)
部活動 剣道部

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篠原啓祐5

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鹿児島中央高校に進学した理由

自宅からの通学時間の短さが決め手だったと思います。受験勉強頑張りました(笑)

在学時の思い出

ほとんど部活中心でした。当時は宿題が多かったので、帰宅後、眠たいのを我慢しながら必死に宿題に取り組んでいました。また、部員同士で勉強を教え合ったり、お互いを助け合ってました。他の部員より剣道はそれほど強くありませんでしたが、当時ご指導いただいた大西先生(23期)、俣木先生、仲間のおかげで、今でも剣道を続けています。

また、桜島一周遠行で走破したことは、自分にかなり自信がつきました。遠行後数日は足が筋肉痛で階段を上がるのも大変でしたが、「遠行のキツさに比べたら、日ごろの苦労なんて楽勝!」と思えるようになりました。

進学後や社会に出てからの経歴や思い出

メディア関係で働きたいという思いがあり、高校卒業後は鹿児島大学法文学部経済情報学科に入学しました。大学在学中、休学してイギリスへ短期留学(半年間。両親にはかなり反対されました…。)したのをきっかけに価値観が変わり、金融関係か観光業への就職を考えるようになりました。悩んだ末、金融関係を選択。中小企業金融のプロである、国民生活金融公庫(現・日本政策金融公庫)に入社しました。

入社後数年間は仕事になじめず苦しい時期もありましたが、その時に頼りになったのは高校時代の同級生で、時々時間が合えば、いまでも交流をしています。また、留学経験もあったので海外を相手に働いてみたいと思っていましたが、当時はそのような機会がありませんでした。

入社後、自分を高めるための資格取得を心がけており、2017年には中小企業診断士を取得しました。働きながらの資格取得は大変ですが、三綱領の「好学」の大切さを社会人になってから改めて気づかされました。

現在の状況

2016年4月から、縁あって日本貿易振興機構(ジェトロ)に派遣されています。昨年4月からは同機構のハノイ事務所(ベトナム)に駐在し、現地での展示会・セミナー開催などを通じて、日本企業の海外進出をサポートしています。仕事は大変ですが、世界を身近に感じることができ、大変充実した生活を送っています。
ベトナムには中小企業診断士が少なく、また、取りまとめる組織がなかったので、今年2月に在ハノイの中小企業診断士に声をかけ、ハノイ中小企業診断士会を設立しました。仕事の傍ら、情報交換や資格更新のための協力を行っています。

ハノイでは、現地の剣道クラブがあり、時々参加しています。使用している体育館は、床が堅く、はがれていたり、釘が出ていたりなど、日本と比べると練習環境が非常に悪いのですが、それでも日本の剣道を一生懸命学んでいるベトナム人の姿を見て、何か貢献したと思うようになりました。今年は日越友好45周年の記念の年であり、ベトナムの剣道家に貢献しようということで、11月11日に剣道大会を主催しました。運営は大変でしたが、多くのベトナム人に喜んでいただきました。

また、現地鹿児島県人会の代表を仰せつかっており、11月に開催された鹿児島県人世界大会に出席するため一時帰国した際は、おはら祭の前夜祭の中央高校連に飛び入りで参加させてもらいました。突然にもかかわらず同窓会の諸先輩方に温かく迎え入れていただき、大変うれしく思いました。これまでに一度もおはら祭で踊ったことがなく、一度は踊ってみたいと思っていたので、まさかこのタイミングで夢が実現するとは思っていなかったです。

後輩・現役生徒へのメッセージ

今思うと、どの経験も苦労の連続でしたが、時間はかかりましたが夢をかなえることができた理由は、在学時代に学校で教わった社会人としての基礎を生かし、様々なご縁や機会を大事にし、あきらめずコツコツと繋げた結果だと思います。

高校生の時期は、将来の進路に悩むと思いますが、「今」を大事にし、積極的に学校生活に取り組み、社会人としての基礎作りをしてください。必ず道は開けます。

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