卒業生の活躍

和田明(41期生)

更新日時:2019年03月14日

和田明1

和田明2

氏名 和田明
職業 ジャズシンガー
部活動 1年 – ソフトテニス
2年 – 帰宅部
3年 – 美術部

進学理由

学力に見合った公立高校だったことと、文化祭でロックバンドのライブをやっていたことが理由です。

 

在校時の思い出

三年間で熱心になったのは、バンド活動、応援団、受験勉強(絵画の実技含む)の3つだ。

バンド活動

中学の頃からパンクバンドでギターを弾きたかったが、趣味の合う友人を見つけることができずにいた。幸運にも、高校に入学して数日のうちに他クラスのベーシストと知り合うことができ、他校のシンガー、ドラマーを加えて三年間活動した。よく集まり、よく話し、喧嘩のようなライブをし、無敵の四人であった。

一年の時に文化祭でやったライブ。今思えば、あれが僕の人生の始まりだった。周りの僕を見る目がガラッと変わった。音楽がくれた自信。それは思春期にまだ片足を突っ込んでいて、精神的な土台の無かった僕にとってはとても大切な出来事だった。二年の時には体育館の床が抜てししまうほど盛り上がり(半分の面積が使えなくなった)、三年の時は受験勉強のためとイベントへの参加が縮小されるのだが、担任の理解があり、秘密で教室ライブをさせてもらった。

10代後半の有り余る「何かしてやりたい」気持ちを、全てぶつけていた。とてもいい経験だったと思う。

応援団

僕は父がドラムをやっていた影響で、手で机などを叩く癖があった。体育祭で見た先輩が打ち鳴らす応援団の太鼓に、その実利性を見たのだった。僕たちの代は、難しすぎて踊られなくなっていた「一閃(いっせん)」と言う演目を復活させた。二年時から最後まで在籍し、今でも時々顔を合わせて話をする仲だ。

受験勉強

二年の学年末までは360人中356位前後の成績だったが、三年の時に心を入れ替え、ようやく進学校の生徒らしくなった。焦りのパワーは凄まじく、最終的にはクラス一位を取るほどまでになった。進路希望は、数学の自習中に因数分解を解くでもなく解いている時に思いついた美術系。夏から実技のデッサンを始め、何とか間に合った。

 

現在

NYに短期渡米後、拠点を都内に移し、ジャズシンガーとして活動中。

-歌ったTVCM-

https://www.youtube.com/playlist?list=PLq9ucBroxM1ChIQph9ZGLY2kfe_fQ1y6f

-劇中歌-

https://youtu.be/SNfU5PIO0M4

-弾き語り-

https://youtu.be/TNbQq-EOAcg

 

メッセージ

好きこそ物の上手なれ。人生を通して好きでいれるものを見つけて、どんな分野であれ、本質的なクオリティのものを継続して残していける「一流」を目指せば、充実します。探してみてください。

アイコン 和田明が歌ったCM。 – YouTube

よろしくお願いいたします。

櫻井絹恵(15期生)

更新日時:2019年02月05日

櫻井絹恵1 櫻井絹恵2
氏名 セブ日本人会
櫻井絹恵
職業
(役職等)
会長

謹んで新年のお慶びを申し上げます。2019年が鹿児島中央高校同窓会様の皆様、また恩師の皆様にとりまして、健康に恵まれ素晴らしい年となります様心よりお祈り致します。

私は14期生で入学、15期生で母校を卒業致しました櫻井絹恵です。現在セブ日本人会長をしております。ロータリークラブの交換留学奨学制度でアメリカ留学1年の機会を頂き休学した為留年致しました。お陰様で多くの友人に恵まれ、40年経った今も一時帰国するに度にプチ女子会をしております。同窓会の醍醐味はいくら年をとって生活環境が違っても、旧友達と会っている時は当時の女子高生に戻れる事です。Young at Heart❤でいつもありたい女子心には同窓会は最適です。

アメリカ、ロシア、フィリピンと海外生活40年になりますが、私は常に故郷鹿児島を想い、心の中で雄大な桜島の姿を描いています。「薩摩おごじょ」で慎ましい女性を意識しておりますが、在住35年になるフィリピンでは女性も大統領になれるウーマン上司社会。「郷に入れば郷に従え」で、基本的に主婦で会長としての器がないのは充分承知しておりますが、長年築いてきた現地社会とのネットワークとセブに居住した経験をフルに活かしセブ島の日本人社会に貢献する所存で会長職に4年就いております。


私は1983年セブに第一歩を踏み、1984年より在住しています。当時はマルコス独裁で戒厳令が敷かれていました。政府を公に非難すると軍に拉致され、拷問や死を覚悟しなければならなかった暗黒の時代です。1986年2月無血の人民革命後、コラソン・アキノ政権が発足しましたが、反乱軍による連続したクーデター事件、華僑や富裕層をターゲットとした誘拐事件が多発し、閑静な住宅地として知られた近所でも殺人事件が連続した時代で、フィリピン中が苦悩したアキノ政権時に幼い息子を連れての生活は大変なものでした。命が縮まる思いをしたのはある日曜早朝、比軍の大型トラック2台分の兵士とNPA自民解放前線ゲリラとの銃撃戦が2軒先で始まり、手榴弾投げあいが目前で始まった時でした。爆発音と鳴り止まない銃撃音は今でも耳に残っています。当時のセブには領事館はなく、藁にもすがりたい気持ちで日本人会に入ったものです。当時の日本はバブル期真っ盛りで若者はパラパラを踊っていた時代です。

JETRO発表の現在のフィリピンは6.7%のGDPでこの数年バブルとも見える経済成長です。それに反映し、メトロセブでも大型ショピングモールが各地でオープン、レストランや商業施設が急増し、多くの高層ビルやマンションの建築ラッシュが続いています。マニラと比較すると治安が良く、手軽にビーチリゾートやダイビングに行ける環境のセブでは英語学校も急増し語学留学銀座になりつつあります。メトロセブ地域に在住する人の在留邦人に加え日本人語学生人口は急増しています。特に正月休みなどのピーク時には3万人以上の日本人がセブ島に居住もしくは留学や観光で滞在しています。


以前はセブ日本人会は「親父の会」とか「敷居が高い」と散々言われてきましたが、若い人達にも敷居の低い開かれた会作りを目指しています。児童教育としてセブ補習授業校の運営に加え、日本人会活動として様々な活動を行なっています。定例総会、恒例の餅つき新年会、日本語スピーチコンテスト、日本語能力検定試験、大運動会、セブ観音での戦没者慰霊祭、巡回医療相談、日系企業見学、日本人墓地管理、タリサイやレイテ島慰霊、また日比友好の大きなイベントとして盆踊り大会や桜フェスティバルなどです。またホームページやFBの充実化を図り、オンタイムで会員様に安全情報や生活に役立つ情報、行事等の発信、またHP上で会報「セブ島通信」をお届けしております。セブ島通信のバックナンバーもいつでも読めるように設定してあります。

また、今年は5年連続して行った盆踊り大会に変わるイベントとして「桜フェスティバル」を3月9日及び10日、SMシーサイドのマウンテンビュー会場で行います。「盆踊り大会」が「動」に対し「桜フェスティバル」は「静」のイベントで伝統的な日本文化を表に出したイベントになります。日本菓子工業組合近畿ブロック青年部様に御協力頂き、和菓子界の鉄人で「極」のチャンピオンの松田氏をはじめ和菓子の職人さん達が多く参加して下さいます。また京都から表千家の茶道の先生方、芸術的な巻き物レジェンド講師による実演もございます。セブ島で本格的な和菓子とお茶を是非御堪能なさって下さい。また琴や琵琶など和楽器の演奏、日本舞踊、雛人形製造実演と雛人形ディスプレイ、華道、書道、盆栽の実演と展示、武道のデモンストレーションや補習授業校による折り紙ワークショップなど「和」を意識したイベントになります。盆踊り同様、テロ対策と食中毒に対しては細心な対策を講じ、安全には何よりも神経を使い、桜フェスティバルを行います。「盆踊り」がフィリピンの人達にブランド名として受け入れられ、日比友好の証として定着しておりますが、今年は形を変えて「桜フェスティバル」を行い更なる日比友好親善を深めて参ります。


私達が友好親善に拘る理由は先の大戦でフィリピンには悲惨な歴史背景があるからです。日本は1941年12月にアメリカの植民地だったフィリピンに将来の独立を約束するといって占領しました。国内内情を把握していなかった日本軍のフィリピン占領当初は、アメリカ軍にはアメリカ人兵士とフィリピン人兵士がおりました。占領後にゲリラ化したフィリピン兵が民衆に紛れ日本軍を襲い、日本兵は民衆とゲリラの見分けがつかず混乱し、フィリピンの一般人はゲリラと日本軍の板挟みになり大多数の犠牲者を出してしまいました。日本軍に追われオーストラリアに退却したアメリカは、海上から武器や資金を提供し、強硬になっていたフィリピンゲリラと日本軍のとの戦いは更に泥沼化し、地獄の戦いと化して行きました。

レイテ島やセブ島を始め、フィリピン全土で過酷で悲惨な戦いが行われました。フィリピンは東南アジアの沖縄とも言われ、外地では最大の51万8千人を超える日本人が命を落としました。しかし、当時の人口1630万人でのフィリピン側の死者は111万に及んでいて、当時の国民の16人に一人が亡くなっていることは日本ではあまり知られていません。誰も望んでいなかった戦争に何故多くの人々が戦争の渦に巻き込まれたのか、そこにはアメリカからの独立間近のフィリピンに日本が進軍した故の悲しい事実があります。

アキノ大統領主催の晩餐会での天皇陛下のお言葉です。
「貴国国内において日米両国間の熾烈な戦闘が行われ、貴国の多くの人が命を落とし傷つきました。私ども日本人が決して忘れてはならない事」
御言葉には陛下の思いが凝縮されています。私達は時の流れやフィリピン人の「許す」という寛大さに甘える事なく過去を心に刻む事を忘れてはなりません。 また忘れていけないのは、フィリピンには戦前、戦中、当時の貧しかった日本から多くの日本人がフィリピンに渡り商売やプランテーション経営を行い、フィリピン人女性と結婚し幸せな家庭を築いた事です。しかし戦争により全てが失われてしまいました。 戦争の混乱中、民間人でも日本人というだけで虐殺された時代で、赤ちゃんや子供までもが殺されました。戦後も日本人のアイデンティティを隠して必死に生き延び日系人の方々の御苦労は言葉では表せない非情なものです。

人の考えや社会情勢が日々変化していく中、天皇陛下御自身が憲法の下で天皇のあり方を考え続けられ、また被災地や遠隔地の御訪問や慰霊の旅を通じて実践されて来られました。3年前、フィリピンと日本の国交正常化60周年で国賓として天皇皇后両陛下がフィリピンを公式訪問されました時に私はフィリピン在留邦人代表の一人とし両陛下に謁見の栄誉を得ました。天皇皇后両陛下との御接見の栄誉は生涯の標であり、フィリピン御訪問の両陛下の思いを真摯に受け止め、長年この地に住むものとして日本人コミュニティ作りとフィリピン社会への友好に貢献に尽力して行く所存であります。両陛下の慰霊と日系人に対するお気持ちを深く受けとめ、セブ日本人会は毎年8月15日にセブ観音で行われている慰霊祭だけでなく、レイテ島やタリサイ、フエンテ野戦病院跡地においての慰霊も後世に恒久平和の誓いを引き継いでいく為に会の活動として取り組んで参ります。世界の流れが自国主義やヘイトスピーチを容認する動きがある今だからこそ戦争の悲惨さを語り継ぐ意義を感じます。


2019年は平成最後の年で、今春は4月30日の天皇陛下退位、そして5月1日は皇太子様御即位で日本の歴史にとって極めて重要な節目です。平成に変わる新年号で新たなスタートとなり、より一層気持ちを引き締めてこれからもセブ日本人社会への貢献とフィリピン社会との友好の架け橋となれる様日々精進して参ります。今回は鹿児島中央高等学校同窓会様に寄稿する機会を頂きました事を心より感謝致します。今後とも鹿児島中央高等学校で学んだ根性と知恵で地域貢献と日比友好親善に取り組んで参りますので宜しくお願い致します。

篠原啓祐(33期生)

更新日時:2018年11月16日

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氏名 日本貿易振興機構
(ジェトロ)ハノイ事務所
篠原啓祐
職業(役職等) 団体職員(事業チーム)
部活動 剣道部

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鹿児島中央高校に進学した理由

自宅からの通学時間の短さが決め手だったと思います。受験勉強頑張りました(笑)

在学時の思い出

ほとんど部活中心でした。当時は宿題が多かったので、帰宅後、眠たいのを我慢しながら必死に宿題に取り組んでいました。また、部員同士で勉強を教え合ったり、お互いを助け合ってました。他の部員より剣道はそれほど強くありませんでしたが、当時ご指導いただいた大西先生(23期)、俣木先生、仲間のおかげで、今でも剣道を続けています。

また、桜島一周遠行で走破したことは、自分にかなり自信がつきました。遠行後数日は足が筋肉痛で階段を上がるのも大変でしたが、「遠行のキツさに比べたら、日ごろの苦労なんて楽勝!」と思えるようになりました。

進学後や社会に出てからの経歴や思い出

メディア関係で働きたいという思いがあり、高校卒業後は鹿児島大学法文学部経済情報学科に入学しました。大学在学中、休学してイギリスへ短期留学(半年間。両親にはかなり反対されました…。)したのをきっかけに価値観が変わり、金融関係か観光業への就職を考えるようになりました。悩んだ末、金融関係を選択。中小企業金融のプロである、国民生活金融公庫(現・日本政策金融公庫)に入社しました。

入社後数年間は仕事になじめず苦しい時期もありましたが、その時に頼りになったのは高校時代の同級生で、時々時間が合えば、いまでも交流をしています。また、留学経験もあったので海外を相手に働いてみたいと思っていましたが、当時はそのような機会がありませんでした。

入社後、自分を高めるための資格取得を心がけており、2017年には中小企業診断士を取得しました。働きながらの資格取得は大変ですが、三綱領の「好学」の大切さを社会人になってから改めて気づかされました。

現在の状況

2016年4月から、縁あって日本貿易振興機構(ジェトロ)に派遣されています。昨年4月からは同機構のハノイ事務所(ベトナム)に駐在し、現地での展示会・セミナー開催などを通じて、日本企業の海外進出をサポートしています。仕事は大変ですが、世界を身近に感じることができ、大変充実した生活を送っています。
ベトナムには中小企業診断士が少なく、また、取りまとめる組織がなかったので、今年2月に在ハノイの中小企業診断士に声をかけ、ハノイ中小企業診断士会を設立しました。仕事の傍ら、情報交換や資格更新のための協力を行っています。

ハノイでは、現地の剣道クラブがあり、時々参加しています。使用している体育館は、床が堅く、はがれていたり、釘が出ていたりなど、日本と比べると練習環境が非常に悪いのですが、それでも日本の剣道を一生懸命学んでいるベトナム人の姿を見て、何か貢献したと思うようになりました。今年は日越友好45周年の記念の年であり、ベトナムの剣道家に貢献しようということで、11月11日に剣道大会を主催しました。運営は大変でしたが、多くのベトナム人に喜んでいただきました。

また、現地鹿児島県人会の代表を仰せつかっており、11月に開催された鹿児島県人世界大会に出席するため一時帰国した際は、おはら祭の前夜祭の中央高校連に飛び入りで参加させてもらいました。突然にもかかわらず同窓会の諸先輩方に温かく迎え入れていただき、大変うれしく思いました。これまでに一度もおはら祭で踊ったことがなく、一度は踊ってみたいと思っていたので、まさかこのタイミングで夢が実現するとは思っていなかったです。

後輩・現役生徒へのメッセージ

今思うと、どの経験も苦労の連続でしたが、時間はかかりましたが夢をかなえることができた理由は、在学時代に学校で教わった社会人としての基礎を生かし、様々なご縁や機会を大事にし、あきらめずコツコツと繋げた結果だと思います。

高校生の時期は、将来の進路に悩むと思いますが、「今」を大事にし、積極的に学校生活に取り組み、社会人としての基礎作りをしてください。必ず道は開けます。

辻 希(11期生)

更新日時:2018年09月04日

辻望1

辻希2

氏名 希 NOZOMI 法律事務所
辻 希
職業 弁護士 事務所代表
部活動 郷土研究部

東京都中央区日本橋3-1-4 画廊ビル6階B
03-6807-1083

他校を志望していましたが、川内北中の恩師に強く勧められ入学しました。
そのほか、女子は体育の授業に水泳がなかったこと(夏休みに特別授業あり)や制服が可愛かったのが入学動機でした。

3年間、図書室学習を強いられ、特に、休日の学習は10時間以上しなければ、先生に怒られていました。教材の忘れ物をすると、その時限は正座でした。
水曜日の団訓は、桜島が噴火し灰が降って、中止になることをいつも祈っていました。

九州大学法学部に入学しましたが、当時4年制大学卒の女性は大変な就職難であることを知り、3年生から司法試験に挑戦しました。卒業後、中洲のスナックで週2回アルバイトをし、生活費を工面しながら、2年間挑戦。そのうちに、親に見初められて、26歳で結婚し、東京の老舗料亭の若女将に。数年を経て、子1人の母子家庭に。2年間必死に司法試験の勉強をし、34歳で合格。平成5年に弁護士登録。その後、働きながら再婚し1児を設けますが、離婚。
20年に事務所を開設し、現在に至っています。主に、マンション管理・離婚・交通事故問題を取り扱っています。

三綱領・五条目が好きでした。団訓、中央高校体操、寒中鍛練が良い思い出で、 将来役に立つはずです。
3年間は、自由がない明るくないコンプレックスの時間の海で、溺れ死にしそうな暗い青春と思っていましたが、その時の空気を吸っていた喜び、絆、今では素晴らしい時間であったと感じています。
輝かしい青春ではないと感じ、生きていき難い時期も乗り越えれば、必ず良い日がやってきますよ。頑張って欲しい!

第11期 関東同窓会

兒玉侑大(35期生)

更新日時:2018年07月10日

兒玉侑大
氏名 第53回同窓会総会 実行委員長
兒玉侑大
勤務先 霧島市役所 総務部財政課 主任主事
住所 霧島市国分中央3-45-1
電話番号 0995-45-5111(代)

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鹿児島中央高校に進学した理由

母校の先輩で県庁に勤務されている方が近くに住んでおり、当時から行政マンになりたかったので「中央には入れれば行政マンになれる(笑)」と思ったためです。何とか無事に合格できました。

母校での3年間

入学後は空手部に所属しました。1学年各5名程度の部員数だったので、講堂の舞台や袖で練習に励みました。

「ランニングの体操服」は自分たちの代から半袖のTシャツタイプに、また補助バッグも変わりました。(ただ在校時は賛否両論のあった補助バッグでした。)ちなみに「中央高校体操」は1年時までで、それ以降は実施されなくなってしまいました。

1年時は長野オリンピックの年で清水選手への憧れもあり、ちょうど33期生がご卒業された後には、3階の「よく滑る蠟引きの廊下」で「スピードスケート」のマネをして友人とレースを楽しんでおりました。

2年生の時、修学旅行で中国に行きましたが、訪問地の西湖で乗っていた遊覧船が他の船と衝突事故を起こしました。その際、何を思ったか他の船へ一人飛び移り離れ離れになり、船着場でクラスの仲間と合流できた時には、添乗員さんにこっぴどく叱られましたが、今でも反省しております。

この年の体育祭では、障害物競走に出場しましたが惜しくも負けてしまい、悔しさから1年間、レースの研究を重ね、最終学年で一番になりました。高校時代の数少ない成功体験です。

勉強の方はといえば、1年時の数学教科担任の先生が怖くて、日々題や予習もまじめに取り組みました。2年時は文系クラスに進級しましたが、致命的にも国語と英語が非常に苦手でした。
特に英語は、先生から「(大学に進学したくても)どこにも受からないレベル」と指導されましたので、センター試験までは英語の成績を上げることに重点を置き、「英語漬け」の毎日を過ごしました。

何事も規律があって厳しい3年間でしたが、苦楽を共にした友人たちと天文館で遊んだりして適度な息抜きが貴重な時間であり、楽しみの一つでした。

その甲斐あってか、35期生は野球部やサッカー部の活躍をはじめ、切磋琢磨し、文武両道の素晴らしい結果も残しました。

大学進学から社会人としてのいま

苦手な英語も何とか克服し、幸いにも鹿児島大学法文学部法政策学科に進学できました。大学生活は順風満帆に過ごせました。

就活時は、大学で行政法を専攻していた関係で判例研究を活かせるのではないかと思い、当時、産業廃棄物処理場の建設が予定されていた国分市(現霧島市役所)を受けて、合格しました。

地域密着という点では、大きな自治体とは異なり「市民との距離も近く、住民の声を直接耳にする機会も多い」職場だと実感しました。また、市民と行政の感覚差にいち早く気づくことのできる「現場系の部署」に今まで配属されたおかげで、仕事も比較的早く覚えることができました。

これから目指すことは、財政と法律を知らなければ適切な判断ができないので、総合職(ゼネラリスト)のプロフェッショナル」になれるよう経験を活かし自分の力を付けていきたいです。また、地方においては、社会資本を整える役所の役割は大きいという観点からも、市民がこの地に暮らしてよかったと思えるまちづくりに励みたいと思っております。

第53回総会に向けて

伝統を繋いでいくのが務めであり重要だと思っております。
そして同期の絆を深めながら準備に明け暮れております。

御縁の拡がりにも期待しておりますので、同窓生に一人でも多く参加してもらえるよう微力ながら担当期として全力でお手伝いします。

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