中村 敏也(18期生)

更新日時:2020年01月30日

中村敏也さん

氏名 中村 敏也
卒業期 18期生
職業 株式会社高島屋 法人事業部

鹿児島中央高校に進学した理由

小学校から中学校まで、勉強もせずに明けても暮れても野球漬けでした。
中学3年生の時の秋の県大会での中央高校野球部の活躍を見たのが中央高校を選んだ理由でした。

在校時の思い出

入学してしばらくして、当時鹿児島県の陸上競技の強化部長をし、中央高校の教え子も多くの優秀な選手を育てていらっしゃった陸上部顧問の竹之内宏先生との出会いがありました。
野球を続けるつもりが、気がつけば陸上部へ入部。
すっかり竹之内先生の術中に はまってしまった私は、陸上競技に没頭していきました。
午後から公欠で授業を抜け出して鴨池の陸上競技場で練習することも多く、ますます勉強から遠ざかる日々(汗)。陸上部の仲間の多くは限られた時間で勉強もしっかりしていましたが、私は没頭するタイプでした(笑)。
竹之内先生が権限を最大活用し、私など陸上競技初心者なのに、県や九州の強化合宿への参加や実業団に出向いての練習、県下一周駅伝の鹿児島市チームの練習に加わるなどさせてくださいました。
「お前はやれば出来る。出来るんだ!」と繰り返し言われ、だんだんその気になっていきました(笑)。
陸上部の仲間とはとても長い時間を共に過ごし、お互いのことをほぼ全て知り合う仲でした。
仲間は今も宝物です。
恩師・竹之内宏先生との出会いも、その後の生き方に大きく影響しました。

大学進学から就職まで

神奈川大学経済学部経済学科に進学しました。
入学と同時に陸上競技部に入部。私の専門種目は800mで、高校の時に竹之内先生は私が800mで強くなれるように長い距離やスピード練習を課していましたが、大学では「箱根駅伝だろ。20kmを走れなきゃ!」と指導され、800mの練習とは程遠い練習メニューに困惑もしました。
神奈川大学は箱根駅伝に今年で51回出場していますが、私が入学する数年前から出場が途絶えており、箱根駅伝出場経験者の監督やOBたちが必死でした。
結局私も4年間箱根駅伝の予選会を走りましたが、チームが本戦に出場することは叶いませんでした。
国際金融論のゼミでしたが、教授の勧めの銀行には教授の書いた本を持って役員にご挨拶に行くだけで、試験は受けませんでした。
就職は百貨店の株式会社高島屋へ。
就職先を考えたときに、大学所在地の横浜で絶対的地域一番店の高島屋を最初に思いついたのが第一志望にしたきっかけでした。また、百貨店はあらゆる物を売ることが出来、そのとき旬な売れるものを常に売っていけば安泰だなと思いました。今はそういう時代でなくなってきているのは皆様もご存じの通りです(汗)。

私の転機、そして今

中村敏也さん

中村敏也さん

中村敏也さん

百貨店では売場に配属されるものと思っていましたが、私は入社と同時に今も所属する法人事業部という部署へ配属になりました。
主に、企業のセールスプロモーション活動のお手伝いをする部署です。私の社歴の半分近く携わってきたのは、某飲料メーカーのペットボトルや缶コーヒーにベタ付けされるキャラクターのフィギュアやミニチュアカー、応募抽選のコート(防寒着)や家電・音響機器などのオリジナルの景品を版権者への交渉から商品開発、生産、納品までをプロデュースするような営業の仕事です。
ほぼ100%海外生産を年間数十億円コンスタントに受注し続けていると、納期遅れや仕様違いなど大きなトラブルがいくつもあったり、激しく厳しい仕事でしたが、仲間と頑張り、乗り切ってきました。
しかし、飲料メーカーがベタ付け景品や応募抽選のキャンペーンをほぼ実施しなくなり、私は別の担当になりました。
そして私には少しだけ時間が出来るようになり、考える余裕も生まれました。
そうやって駆け抜けてきたサラリーマン人生でしたが、気がつけば自分もいい年齢になっており、これからは自分を育んでくれた両親や幼稚園から大学にまで恩返し活動をしていこうと思い、今は大学の後輩たちへの支援活動や高校の同窓会のお手伝い、故郷鹿児島関係への微力ながらの支援をさせていただいています。
さらに昨年秋からは、30年も封印していたランニングを始めました。恩返し活動で連日忙しいのですが、市民マラソンに出場したり、練習の時間も作ることにより、これまでとは違う多忙な日々を過ごしています(笑)。

後輩・現役生徒へのメッセージ

高校や大学時代、さらには社会人になってからも、そのときに自分が何をすべきかを自ら考えて行動してください。そのときにしか出来ないことはいくつもあります。勉強嫌いだった私が本当は言えることではありませんが、勉強もそうですね。そして、ご両親がお元気なうちにたくさん孝行してくださいね。