卒業生の活躍

横山 卓朗(39期生)

更新日時:2025年08月01日

横山 卓朗

氏名 横山 卓朗(第60回記念同窓会総会・懇親会実行委員長)
卒業期 39期
勤務先 三輝開発工業株式会社
役職 取締役
部活動 硬式テニス部

鹿児島中央高校に進学した理由

中学時代は軟式テニスをしており、良い指導者にも恵まれダブルスしかなかったのですが、そこそこ良い成績を残してました。高校に入ったらシングルスでも結果を出したいとの思いがあり、当時、硬式テニスの強い高校を探したところ中央高校が強いとの情報を得たのがきっかけで鹿児島中央高校に受験しました。
学校推薦を決める際に横山君は実力で受かるから別な子を推薦させて欲しいと当時の中学の進路指導の先生から言われましたが腐ることなく無事に合格出来てよかったです。

高校3年間の思い出

横山 卓朗

密度の濃い三年間でしたが、特に印象に残っているのは修学旅行と部活動の硬式テニスです。
修学旅行は人生初の海外!イギリスでした。友人と旅行するだけでも楽しいのに長時間の飛行機から日本語の通じない環境、有名な建造物、すべてが新鮮でとても良い経験になりました。私自身その後、何度か海外に行く機会がありましたが、修学旅行での経験が役に立った点が多くあります。
また部活動の硬式テニスでは先輩や同期、後輩に恵まれ、練習は物凄くきつかったですがテニス漬けの毎日を楽しく過ごすことが出来ました。全国選抜出場がかかった九州ブロック5位決定戦の団体戦では、ダブルス2つが負けシングルス2つが勝ちシングルス3の私に勝敗がかかった試合では緊張とプレッシャーが半端なくボロ負けしてしまったことは私の人生の中での一番悔しい思い出です。高校二年の時には当時の担任に一週間の休みの許可をもらい、テニスの四大大会の一つであるオーストラリアンオープンを観に行き、その後の自分のテニスプレースタイル等色々影響を受けました。最後のインターハイ予選では団体戦は決勝で敗れ惜しくも2位。九州大会どまりでしたが、中央高校での日々は私の基盤を築く大切な時間でした。

大学生活

センター試験当日インフルエンザにかかり、別室受験で手ごたえが全くない中、高校に続き九州でテニスの強い大学を探し、当時九州1部リーグに所属していた熊本学園大学に進学しました。大学でもテニスを中心な生活をしておりましたが、高校と違い初めての一人暮らし、自炊、バイトを経験し、自分が働いて初めて得たバイト代は何かすごく特別な気持ちになったことを覚えています。
学校生活では真面目に授業に通い、1年時から首席になって学費免除を狙いましたが、第三席。経済学部でしたが教職課程も履行し、教育実習では母校である鹿児島中央高校に戻り高校地理で教育実習も行いました。4年ぶりに母校に戻ると同期の教育実習生と久々に会えたこと、また高校二年時の担任と会い語れたこと、自分の事を先生と呼んでくれる43~45期の生徒に出会えたことは、とても有意義な時間であり、4年間の教職課程は大変でしたが履行して良かったと心から思えました。

就職活動~現在の仕事

横山 卓朗

横山 卓朗

横山 卓朗

就職活動は鹿児島での教員採用試験に高校地理での募集がないことから始まりました。私は地元での就職を希望していた為、募集がないことに衝撃を受けましたが気持ちを切替え経済学部で学んだことを活かす為、また鹿児島のお金の動き等を知る為に金融関係や経済連、教科は公民で教員採用試験(悪あがき)を中心に就職活動を行いました。縁あって高校時代にテニスを教えて頂いていた鹿児島相互信用金庫に就職。桜島支店→新栄支店→平佐支店→城北支店→本部人事研修部→姶良支店と窓口・営業・融資担当を得て、人事部では採用担当・新人研修担当をさせて頂き、自分が担当した子たちは親しみを込めて愛称“横山チルドレン”と呼ばれていました。
また、営業・融資ではお客様と接する機会も多く、鹿児島中央高校39期卒です!と語ると中央OB・OGの方にかなり多く出会って、後輩ということで色々と良くして頂いたことを覚えています。
10年間働き一区切りしたところで、現在は父の会社である三輝開発工業(株)に勤めております。建設業という今までとは全く異なる業種でしたが、初めての仕事が母校である鹿児島中央高校のテニスコート側の校舎の解体の写真管理。ここでも何かしら縁を感じながら、自分が授業を受け親しみのあった教室や途中から訳が分からなくなった物理講義室が取り壊され何か感慨深いものを感じました。
金融機関在籍時に取得した資格や建設業に入ってから取得した資格等様々ありますが、資格は持っていて損はないのでこれからも積極的に様々な資格取得の努力は続けたいと思います。

その他の活動として

金融機関でのブレーン活動、建設業の青年部活動、鹿児島市の消防団に所属しており、それぞれの分野で大小様々なイベントや大会に積極的に参加しております。
また、鹿児島マラソンは第一回大会から毎回参加しており、母校の応援団の演武では39期卒だよーと声をかけながら走っています。今後は子供たちが大きくなってきたの時の為、大好きなテニスを再開し、子供と一緒にプレーすることが当面の目標です。

第60回記念同窓会総会・懇親会に向けて

60回記念として今までとは違う様々な変化を入れております。ポスターデザインの一新、20代30代の料金改定、記念品の製作、これらは今まで参加人数が少なかった世代を取り入れたい思いが入ってのことです。
また今回のテーマは『絆、ふたたび。』とさせて頂きました。同窓会をきっかけに久しぶりに連絡を取ったりすることで途絶えていた絆がふたたび再開するというイメージです。39期は数年前まで理事が空白の期でしたが、幹事期になり39期が再び集まる機会を得たことで久しぶりに連絡をとりグループラインも出来ました。
常連さんには「今日は例年より良かった。参加して良かった。」初参加の方には「楽しかった。来年も来てみよう」と言ってもらえるように、39期一同おもてなしさせて頂きます。
令和7年8月9日(土)SIROYAMAホテルにて会いましょう!

後輩・現役生へのメッセージ

私の座右の銘です。『好きこそものの上手なれ』
好きなことは熱心に取り組むため自然と上達が早くなります。哀しいことや苦しいこともあると思いますが、一度立ち止まってみてその事案に対して好きになれる要素をどこか探してみて好きになる努力をして見てください。そうすることでプラスに考えることが出来る要素もあります。好きになってしまえば、好きなことへの情熱を大切にし、それを通じて成長します。自分の好きなことを見つけそれを極めることで、より充実した人生を送ることができるはずです。

鍵谷 謙吾(37期生)

更新日時:2023年07月13日

鍵谷 謙吾

氏名 鍵谷 謙吾
卒業期 37期生
職業 株式会社 昴
役職 教室長
部活動 サッカー部

鹿児島中央高校に進学した理由

学校の教員を目指すために国公立大学の進学者が多く、また、サッカー部の強い高校に行きたくて進学をしました。後で分かったことですが、かなりギリギリの点数で合格していました。入試当日の国語の記号問題が全てあっていたことが合格を引き寄せたと今でも思っています。(国語が苦手であった自分としては、当時通っていた昴和田校の先生に感謝しかありません。)

高校3年間の思い出

第一に浮かぶのは部活のサッカーです。小・中学校のときは弱小チームだったので、一度でいいので強いチームでサッカーをしたいという思いで、サッカーに打ち込みました。下手なりに努力はしました。レギュラーになれることはありませんでしたが、3年間最後まで諦めずにできたのは、同級生のおかげでした。今でも悔いは残っていません。
第二に浮かぶのは、朝5:30に起床し、6:18五位野駅発のJRに乗って中央高校に通ったことです。通学時間は片道約一時間(自宅から五位野駅まで10分、JRで30分、鹿児島中央駅から中央高校まで15分)、中学校のときの友人と一緒に三年間通いました。時間を有効に使うために、JRの中で日々題を終わらせたり、英語の小テストの勉強をしていました。(とはいうものの、宇宿駅くらいからは眠くて寝ていました・・・)

大学生活

自分の勉強不足のため、教育学部のある国公立大学への進学はできませんでした。しかし、不合格になったときに、自分を見つめなおす時間を作り、「浪人か?私立大学に行くか?」を真剣に悩みました。手続き終了の二日前に、大分県の別府大学に行くことを決めました。そのときの自分は、「浪人よりも、次のステージで夢をかなえよう」でした。別府大学に進学した理由は、歴史が好きで専門的な勉強をしてみたかったということと、教職課程のカリキュラムがあったからです。大学での勉強はそこそこしましたが、コンビニや旅館でのアルバイトを積極的にしました。20年以上たった今でも、別府に遊びに行ったら顔を見せに行き、自分の現状報告をしたりします。(自分が働いていたところはもう別な店舗等になっていますが・・・)
そして19歳のときに「サッカーの審判免許取得」が自分の人生を大きく変えたことだと言っても過言ではありません。初めはサッカーショップの知り合いに誘われたから続けていたことが、審判の楽しさや難しさを勉強する中で40歳になった今も現役で続けられています。

株式会社 昴での仕事

鍵谷 謙吾さん

鍵谷 謙吾さん

鍵谷 謙吾さん

延岡校~伊集院校~川内北校と赴任してきて、現在は14年目を迎えています。一番の思い出は、自分が中学校のときに和田校でお世話になった数学の先生と一緒の職場になったことでした。そして自分が教室責任者になり、「子どもたちのために」をモットーに、中学入試や高校入試の受験指導はもちろんのこと、学校のテストで良い結果を出すためにどのようにしていくのかなど、生徒・保護者と二人三脚で行っています。生徒たちが目標を達成したときに嬉しい顔を見ることができるときが一番、この仕事をしていて良かったと思う瞬間です。いつも生徒たちには、「結果を出すためには、他の人よりも何倍も努力をする必要がある」ことが大事だと話をし、生徒たちと接しています。常に全力で向き合っています。

サッカーの審判・インストラクターとして

19歳から始めた審判活動ですが、現在も審判活動は続けています。これ以外に、36歳からは広報活動としてHPに活動報告を掲載したり、39歳からは2級インストラクターとして、若手育成の手伝いをしています。最近ではシニアの審判委員長にもなり、本業の仕事以外も充実した日々を送ることが出来ています。

第58回同窓会総会・懇親会に向けて

懇親会は2019年以来、4年ぶりの開催です。テーマは「さいかい」です。これは、同窓生との「再会」、懇親会を「再開」することを掛けています。「今日参加して良かった。また来年も参加しよう」と言ってもらえるように、参加頂ける皆様が笑顔で、楽しんでもらえるようにするため、準備中です。8月12日(土)を楽しみにしていてください。同窓生の皆様の参加をお待ちしています。

後輩・現役生へのメッセージ

どんなことにおいても、楽しいこと、うれしいこと、苦しいこと、悔しいことが今後も色々でてきます。苦しいことや悔しいことから逃げ出すことをせず、それを楽しいことやうれしいことにするためには、「他の人よりも何倍も努力をする必要」があります。「努力は決して結果を裏切らない。」

中村 敏也(18期生)

更新日時:2020年01月30日

中村敏也さん

氏名 中村 敏也
卒業期 18期生
職業 株式会社高島屋 法人事業部

鹿児島中央高校に進学した理由

小学校から中学校まで、勉強もせずに明けても暮れても野球漬けでした。
中学3年生の時の秋の県大会での中央高校野球部の活躍を見たのが中央高校を選んだ理由でした。

在校時の思い出

入学してしばらくして、当時鹿児島県の陸上競技の強化部長をし、中央高校の教え子も多くの優秀な選手を育てていらっしゃった陸上部顧問の竹之内宏先生との出会いがありました。
野球を続けるつもりが、気がつけば陸上部へ入部。
すっかり竹之内先生の術中に はまってしまった私は、陸上競技に没頭していきました。
午後から公欠で授業を抜け出して鴨池の陸上競技場で練習することも多く、ますます勉強から遠ざかる日々(汗)。陸上部の仲間の多くは限られた時間で勉強もしっかりしていましたが、私は没頭するタイプでした(笑)。
竹之内先生が権限を最大活用し、私など陸上競技初心者なのに、県や九州の強化合宿への参加や実業団に出向いての練習、県下一周駅伝の鹿児島市チームの練習に加わるなどさせてくださいました。
「お前はやれば出来る。出来るんだ!」と繰り返し言われ、だんだんその気になっていきました(笑)。
陸上部の仲間とはとても長い時間を共に過ごし、お互いのことをほぼ全て知り合う仲でした。
仲間は今も宝物です。
恩師・竹之内宏先生との出会いも、その後の生き方に大きく影響しました。

大学進学から就職まで

神奈川大学経済学部経済学科に進学しました。
入学と同時に陸上競技部に入部。私の専門種目は800mで、高校の時に竹之内先生は私が800mで強くなれるように長い距離やスピード練習を課していましたが、大学では「箱根駅伝だろ。20kmを走れなきゃ!」と指導され、800mの練習とは程遠い練習メニューに困惑もしました。
神奈川大学は箱根駅伝に今年で51回出場していますが、私が入学する数年前から出場が途絶えており、箱根駅伝出場経験者の監督やOBたちが必死でした。
結局私も4年間箱根駅伝の予選会を走りましたが、チームが本戦に出場することは叶いませんでした。
国際金融論のゼミでしたが、教授の勧めの銀行には教授の書いた本を持って役員にご挨拶に行くだけで、試験は受けませんでした。
就職は百貨店の株式会社高島屋へ。
就職先を考えたときに、大学所在地の横浜で絶対的地域一番店の高島屋を最初に思いついたのが第一志望にしたきっかけでした。また、百貨店はあらゆる物を売ることが出来、そのとき旬な売れるものを常に売っていけば安泰だなと思いました。今はそういう時代でなくなってきているのは皆様もご存じの通りです(汗)。

私の転機、そして今

中村敏也さん

中村敏也さん

中村敏也さん

百貨店では売場に配属されるものと思っていましたが、私は入社と同時に今も所属する法人事業部という部署へ配属になりました。
主に、企業のセールスプロモーション活動のお手伝いをする部署です。私の社歴の半分近く携わってきたのは、某飲料メーカーのペットボトルや缶コーヒーにベタ付けされるキャラクターのフィギュアやミニチュアカー、応募抽選のコート(防寒着)や家電・音響機器などのオリジナルの景品を版権者への交渉から商品開発、生産、納品までをプロデュースするような営業の仕事です。
ほぼ100%海外生産を年間数十億円コンスタントに受注し続けていると、納期遅れや仕様違いなど大きなトラブルがいくつもあったり、激しく厳しい仕事でしたが、仲間と頑張り、乗り切ってきました。
しかし、飲料メーカーがベタ付け景品や応募抽選のキャンペーンをほぼ実施しなくなり、私は別の担当になりました。
そして私には少しだけ時間が出来るようになり、考える余裕も生まれました。
そうやって駆け抜けてきたサラリーマン人生でしたが、気がつけば自分もいい年齢になっており、これからは自分を育んでくれた両親や幼稚園から大学にまで恩返し活動をしていこうと思い、今は大学の後輩たちへの支援活動や高校の同窓会のお手伝い、故郷鹿児島関係への微力ながらの支援をさせていただいています。
さらに昨年秋からは、30年も封印していたランニングを始めました。恩返し活動で連日忙しいのですが、市民マラソンに出場したり、練習の時間も作ることにより、これまでとは違う多忙な日々を過ごしています(笑)。

後輩・現役生徒へのメッセージ

高校や大学時代、さらには社会人になってからも、そのときに自分が何をすべきかを自ら考えて行動してください。そのときにしか出来ないことはいくつもあります。勉強嫌いだった私が本当は言えることではありませんが、勉強もそうですね。そして、ご両親がお元気なうちにたくさん孝行してくださいね。

松下 愛(43期生)

更新日時:2019年09月20日

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氏名 松下 愛
職業 株式会社 南日本放送(MBC) レポーター
部活動 バスケットボール部

鹿児島中央高校に進学した理由

大学進学を考えていた中で、「鹿児島中央高校」という学校ブランドに憧れがありました。

そして、憧れのバス通学♪と思い受験を決めましたが、受験直前の模試まで合格判定はギリギリ!同じ塾の仲間と、夜遅くまで必死に受験勉強を頑張った思い出があります。

在校時の思い出

高校時代、仲の良かった化学の先生から私が呼ばれていたニックネームは「体育」!!
高校3年間は、とにかく楽しかった記憶しかありません。学校の成績は、授業についていくのがやっとのレベルでしたが、唯一みんなに得意だと自慢できた教科が「体育」でした。先生にニックネームの由来を聞いてみると、体育祭のリレーを走っていた私の足が速かったから…だそうです。個人的には気に入っていましたが、私が「体育」と呼ばれるのを周りが不思議そうな目で見ているのは面白く、たま~に恥ずかしかったことを覚えています(笑)

部活動は、小学校から続けていたバスケットボール部に入部。3年間切磋琢磨しあった仲間は今でもみんな仲良しで、定期的に連絡を取り合って、食事に行ったり遊びに行ったりしています。

大学進学から就職まで

小さい頃からスポーツをしていたことがきっかけで「スポーツ栄養学」に興味をもちました。
まずは管理栄養士の資格を取得するため、栄養学を学べる鹿児島純心女子大学に進学。卒業時に国家試験を受け、なんとか合格できました。卒業後は委託給食会社に就職して、栄養士の基礎となる業務を日々行っていました。

私の転機、そして今

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自分のスキルを上げたいと思い、栄養士として働いた会社を退職して転職活動を始めました。
「仕事が見つかるまで!」と飲食店でアルバイトを始めたのですが、仕事に慣れてきた頃、MBCのテレビ取材を、店のスタッフ代表で私が受けることに…。撮影の合間に「レポーターの仕事は、県内各地に足を運んで、それぞれの分野で活躍する人たちに話を聞き、それを伝えること。」という話を聴きました。その時、「この仕事をすることで自分の可能性を大きく広げられるかも…。そして何より楽しそうだ!」と思い、翌年、MBCラジオのポニーメイツ試験を受けました。好奇心旺盛な性格で、メディアの仕事にも興味があったので、自分の知らない世界を見られるかも!とワクワクしたことを覚えています。試験に合格した時、「夢を応援するよ」と背中を押して送り出してくれたアルバイト先の方々には、今でも本当に感謝しています。

ポニーメイツとして活動させていただいた2年間は、毎日たくさんの出会いがありました。ポニーメイツを卒業した今も、レポーターとして仕事を続けていて、憧れのプロスポーツ選手にインタビューさせていただいたり、栄養士の資格を活かして料理コーナーを担当させていただいたり、「これまで努力してきた事」や、「好きな事」、「自分の夢」が仕事に繋がって、楽しい毎日を送れていることに日々幸せを感じています。

後輩・現役生徒へのメッセージ

何も考えずに毎日を過ごしていると、時間はあっという間に過ぎていきます。人との出会いやご縁を大切に、今しか出来ないことは悔いを残さないよう、何事にも全力でチャレンジしてください!

私もまだまだ未熟なので、人としてもっと成長できるように、これからも努力を続けていきます。

東 智洋(36期生)

更新日時:2019年07月08日

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氏名 第54回同窓会総会実行委員長
東 智洋(ひがしともひろ)
勤務先 霧島市消防局中央消防署隼人分遣所
階級 消防士長
職名 救急分隊長(救急救命士)
部活動 バスケットボール部

鹿児島中央高校に進学した理由

学力に見合った学校で勉強とスポーツを両立できる学校だと思ったからです。中学校時代から鹿児島中央高校の前にある受験ラサールに通っていたこともあり、自然と鹿児島中央高校での学校生活を頭に思い描いていました。

母校での3年間

一番思い出すのは部活動です。1年生の時から公式戦にも出場させて頂きました。
早朝のゼロ限から始まる過酷なスケジュールをこなし、放課後に部活動、帰宅してから膨大な量の日々題に追われる環境で、みんな精神的にも体力的にとてもきつかったと思いますが、そんな環境でも互いに切磋琢磨し県のウインターカップ予選でベスト4に進出した時は涙を流して喜びました。部活動を通じて本当に最高の仲間に出会えたと思います。そんな彼らとは学校では常に一緒に過ごしていました。夏休みに私の吉野の実家に招いてバーベキューをし、夜中まで満点の星空を眺めながら将来を語り合ったことは今でも鮮明に覚えています。いまでも再会すると吉野でバーベキューしようよ!!と話題になるくらいです。彼らの存在は社会人となった今でも私の心の支えになってくれています。

勉強面では、入学後の最初の試験で、全体で29番の成績をとり、家庭訪問で九州大学も行けますよ!と担任の先生に言われ母親が喜んでくれたことを覚えています。しかし、その後、化学が苦手すぎて成績は急降下!!それでも部活を続けたい一心で勉強も頑張りました。睡眠時間の平均は3時間前後だったと思います。しごきの中央と言われ宿題も相当量あり、生活面でもかなり制約があり、とても厳しい学校生活ではありましたが、そのような思い出がより一層友人たちとのつながりを強いものにしてくれた気がします。

大学進学から就職まで

東智洋2

消防車

将来については父が鹿児島市役所に勤めていた影響もあり大学卒業後は市役所に勤めたいと、当時唯一専門的に地方自治を学べる群馬県の高崎経済大学に入学しました。専攻は政治学で主に選挙の仕組みや国民の投票行動を統計学的に研究していました。卒業論文は鹿児島県の行政評価システムの展望だったと思います。

そんな中、大学4年生の時に新潟中越地震が発生しました。当時住んでいた高崎市でも震度5強、隣県の新潟県では震度7を観測する大地震でした。この地震はただ人の役に立つ仕事に就きたいから市役所に入りたいと将来を漠然と考えていた私の大きな転機となる出来事でした。テレビを通じて次々と報道される悲惨な光景、救助に向かう警察・消防・自衛隊、いつのまにかテレビの前に釘付けになると同時に、何もできない自分に無力感を覚えたことを覚えています。以降は故郷の鹿児島に帰り消防職員になろうと決心し、大学卒業後に現在の霧島市消防局に入局しました。

霧島市消防局入局

隼人分遺所

消防局入局後は救急救命士の国家資格を取得し、現在は主に救急隊として勤務しております。救急救命士は医療機関で行うような根本的な治療はできませんが、傷病者に応急処置を施し、病態を把握したうえで適切な医療機関に傷病者を搬送するという基本的な役割を担っています。

しかし、時には心肺停止事案や生死の危機に瀕している傷病者に対して、医師の指示を仰いだうえで、静脈路確保やアドレナリン投与、気管内挿管といった特定行為と呼ばれる医療行為を実施することもあります。肉体的にも精神的にも負担の多い仕事ではありますが、人の命と真剣に向き合えることができるこの仕事に今は誇りとやりがいを持ち毎日を送っています。

第54回総会に向けて

私たち36期生はこれまで同窓会活動への参加は皆無でありました。前実行委員長の兒玉先輩とのつながりから実行委員長を引き継いだ時は不安で仕方ありませんでしたが、時間を重ねることで先輩方との距離も次第に縮まってきたように思えます。そして何より、総会に向けた準備期間のなかで同じ36期生と過ごす時間がとてもかけがえのないものに感じられます。多くの同窓生に参加して良かった、また来年も参加したいと思って頂ける素晴らしい総会にしたいと思っておりますので少しでも多くの方に足を運んで頂けたら嬉しいです。

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