卒業生の活躍

本村 雄一郎(8期生)

更新日時:2026年01月07日

本村雄一郎

氏名 本村 雄一郎(関西支部長)
卒業期 8期

鹿児島中央高校に進学した理由

甲南中学校3年生の時、市内4高校(鶴丸、甲南、中央、玉龍)の学校説明会がありました。中央高校は文武両道であると説明があったことと、学生帽の蛇腹がかっこよくて中央高校を選びました。

高校3年間の思い出

勉強はあまりしませんでしたが、柔道の部活とクラスマッチは楽しかったです。柔道部の顧問は水流先生でした。水流先生の弟さん(鹿児島大学柔道部の先輩、東洋水産元専務)には今もお世話になっています。2期生の柔道部の先輩濱川さんには高校3年生の時から大学生時代、就職してからも仕事の関係で大変お世話になりました。残念ながら昨年亡くなられました。ご冥福をお祈り申し上げます。

大学生活

鹿児島大学農学部畜産学科に入り、同時に柔道部に入りました。高校時代と違い、先輩たちは皆強く稽古はとてもきつかったです。それでも4年間続け、3年生の時三段を取得。その後、大学院に進み実験が忙しい中、柔道場に行き後輩と稽古をしました。修士論文のテーマは「アヒル卵白の多価性プロテイナーゼインヒビターに関する研究」でヒトの急性膵炎の治療薬に使えないかの研究でした。

就職

本村雄一郎

本村雄一郎

地元鹿児島のジャパンファーム(三菱商事の子会社)に入社。垂水工場に配属。会社で柔道部を作り社員に指導、妙円寺参り大会、昇段試合などに連れて行きました。社員の御子息たちも教えることになり、ピーク時は50数名に。31歳の時、四段取得。同年、三菱商事グループの畜肉販売会社(現フードリンク)に出向、大阪府堺市に転居しました。そこから柔道と縁がなくなり、仕事一途の生活になりました。当時一緒に仕事をしていた三菱商事畜産部の若手が、今はジャパンファームの社長、ローソンの社長、 伊藤ハム米久ホールディングスの社長をしています。54歳の時、同業の会社からお誘いを受け徳島県美馬市に単身赴任。地元の徳島新聞に、自分の本籍と同じ西千石町生まれの中馬庚先生の特集が載っていました。先生は第一高等学校(現在の東京大学)野球部の選手で野球の解説書を多数書かれ野球殿堂入りされています。(Baseballを野球と訳した) 大正時代に美馬市の脇町中学校(現脇町高校)の校長をされており、顕彰碑が脇町高校にあると書いてあったので、同校を訪ねたところ当時の教頭先生が親切に顕彰碑まで案内して下さいました。そして自分の先輩に鹿児島出身の方がいらっしゃるとのことでその場から電話してくださいました。その方は加世田出身で、徳島県庁に勤務(当時は徳島県立博物館館長)されており、徳島で鹿児島県人会と鹿児島大学OB会があるから来やんせ!と言われ参加しました。その両方の会長をされていた先生に「君は柔道をしていたんだったら、地元美馬で教えなさい」と言われ久しぶりに柔道指導を再開しました。2017年五段に昇段。徳島の会社を退職後、現在広島の鶏卵販売会社フレッズに勤務(大阪府泉佐野市の自宅にて仕事)しております。

最近の活動

本村雄一郎

本村雄一郎

本村雄一郎

泉佐野市で月、水、金 少年・大人の柔道の指導をしております。また徳島県柔道連盟理事、美馬市柔道協会会長、鹿児島県柔道会監事をしておりますので、徳島県と鹿児島市には毎月行っています。昨年は、国産ベテランズ選手権、マルちゃん杯九州大会・中四国大会、金鷲旗大会、インター杯、国スポ、講道館杯、東京グランドスラムに教え子と鹿児島県、徳島県、大阪府の選手の応援に行きました。これからも柔道普及に努めていきたいと思っています。精力善用、自他共栄、講道館柔道創始者加納治五郎師範の理念を体現できるようこれからも修行いたします。

横山 卓朗(39期生)

更新日時:2025年08月01日

横山 卓朗

氏名 横山 卓朗(第60回記念同窓会総会・懇親会実行委員長)
卒業期 39期
勤務先 三輝開発工業株式会社
役職 取締役
部活動 硬式テニス部

鹿児島中央高校に進学した理由

中学時代は軟式テニスをしており、良い指導者にも恵まれダブルスしかなかったのですが、そこそこ良い成績を残してました。高校に入ったらシングルスでも結果を出したいとの思いがあり、当時、硬式テニスの強い高校を探したところ中央高校が強いとの情報を得たのがきっかけで鹿児島中央高校に受験しました。
学校推薦を決める際に横山君は実力で受かるから別な子を推薦させて欲しいと当時の中学の進路指導の先生から言われましたが腐ることなく無事に合格出来てよかったです。

高校3年間の思い出

横山 卓朗

密度の濃い三年間でしたが、特に印象に残っているのは修学旅行と部活動の硬式テニスです。
修学旅行は人生初の海外!イギリスでした。友人と旅行するだけでも楽しいのに長時間の飛行機から日本語の通じない環境、有名な建造物、すべてが新鮮でとても良い経験になりました。私自身その後、何度か海外に行く機会がありましたが、修学旅行での経験が役に立った点が多くあります。
また部活動の硬式テニスでは先輩や同期、後輩に恵まれ、練習は物凄くきつかったですがテニス漬けの毎日を楽しく過ごすことが出来ました。全国選抜出場がかかった九州ブロック5位決定戦の団体戦では、ダブルス2つが負けシングルス2つが勝ちシングルス3の私に勝敗がかかった試合では緊張とプレッシャーが半端なくボロ負けしてしまったことは私の人生の中での一番悔しい思い出です。高校二年の時には当時の担任に一週間の休みの許可をもらい、テニスの四大大会の一つであるオーストラリアンオープンを観に行き、その後の自分のテニスプレースタイル等色々影響を受けました。最後のインターハイ予選では団体戦は決勝で敗れ惜しくも2位。九州大会どまりでしたが、中央高校での日々は私の基盤を築く大切な時間でした。

大学生活

センター試験当日インフルエンザにかかり、別室受験で手ごたえが全くない中、高校に続き九州でテニスの強い大学を探し、当時九州1部リーグに所属していた熊本学園大学に進学しました。大学でもテニスを中心な生活をしておりましたが、高校と違い初めての一人暮らし、自炊、バイトを経験し、自分が働いて初めて得たバイト代は何かすごく特別な気持ちになったことを覚えています。
学校生活では真面目に授業に通い、1年時から首席になって学費免除を狙いましたが、第三席。経済学部でしたが教職課程も履行し、教育実習では母校である鹿児島中央高校に戻り高校地理で教育実習も行いました。4年ぶりに母校に戻ると同期の教育実習生と久々に会えたこと、また高校二年時の担任と会い語れたこと、自分の事を先生と呼んでくれる43~45期の生徒に出会えたことは、とても有意義な時間であり、4年間の教職課程は大変でしたが履行して良かったと心から思えました。

就職活動~現在の仕事

横山 卓朗

横山 卓朗

横山 卓朗

就職活動は鹿児島での教員採用試験に高校地理での募集がないことから始まりました。私は地元での就職を希望していた為、募集がないことに衝撃を受けましたが気持ちを切替え経済学部で学んだことを活かす為、また鹿児島のお金の動き等を知る為に金融関係や経済連、教科は公民で教員採用試験(悪あがき)を中心に就職活動を行いました。縁あって高校時代にテニスを教えて頂いていた鹿児島相互信用金庫に就職。桜島支店→新栄支店→平佐支店→城北支店→本部人事研修部→姶良支店と窓口・営業・融資担当を得て、人事部では採用担当・新人研修担当をさせて頂き、自分が担当した子たちは親しみを込めて愛称“横山チルドレン”と呼ばれていました。
また、営業・融資ではお客様と接する機会も多く、鹿児島中央高校39期卒です!と語ると中央OB・OGの方にかなり多く出会って、後輩ということで色々と良くして頂いたことを覚えています。
10年間働き一区切りしたところで、現在は父の会社である三輝開発工業(株)に勤めております。建設業という今までとは全く異なる業種でしたが、初めての仕事が母校である鹿児島中央高校のテニスコート側の校舎の解体の写真管理。ここでも何かしら縁を感じながら、自分が授業を受け親しみのあった教室や途中から訳が分からなくなった物理講義室が取り壊され何か感慨深いものを感じました。
金融機関在籍時に取得した資格や建設業に入ってから取得した資格等様々ありますが、資格は持っていて損はないのでこれからも積極的に様々な資格取得の努力は続けたいと思います。

その他の活動として

金融機関でのブレーン活動、建設業の青年部活動、鹿児島市の消防団に所属しており、それぞれの分野で大小様々なイベントや大会に積極的に参加しております。
また、鹿児島マラソンは第一回大会から毎回参加しており、母校の応援団の演武では39期卒だよーと声をかけながら走っています。今後は子供たちが大きくなってきたの時の為、大好きなテニスを再開し、子供と一緒にプレーすることが当面の目標です。

第60回記念同窓会総会・懇親会に向けて

60回記念として今までとは違う様々な変化を入れております。ポスターデザインの一新、20代30代の料金改定、記念品の製作、これらは今まで参加人数が少なかった世代を取り入れたい思いが入ってのことです。
また今回のテーマは『絆、ふたたび。』とさせて頂きました。同窓会をきっかけに久しぶりに連絡を取ったりすることで途絶えていた絆がふたたび再開するというイメージです。39期は数年前まで理事が空白の期でしたが、幹事期になり39期が再び集まる機会を得たことで久しぶりに連絡をとりグループラインも出来ました。
常連さんには「今日は例年より良かった。参加して良かった。」初参加の方には「楽しかった。来年も来てみよう」と言ってもらえるように、39期一同おもてなしさせて頂きます。
令和7年8月9日(土)SIROYAMAホテルにて会いましょう!

後輩・現役生へのメッセージ

私の座右の銘です。『好きこそものの上手なれ』
好きなことは熱心に取り組むため自然と上達が早くなります。哀しいことや苦しいこともあると思いますが、一度立ち止まってみてその事案に対して好きになれる要素をどこか探してみて好きになる努力をして見てください。そうすることでプラスに考えることが出来る要素もあります。好きになってしまえば、好きなことへの情熱を大切にし、それを通じて成長します。自分の好きなことを見つけそれを極めることで、より充実した人生を送ることができるはずです。

鍵谷 謙吾(37期生)

更新日時:2023年07月13日

鍵谷 謙吾

氏名 鍵谷 謙吾
卒業期 37期生
職業 株式会社 昴
役職 教室長
部活動 サッカー部

鹿児島中央高校に進学した理由

学校の教員を目指すために国公立大学の進学者が多く、また、サッカー部の強い高校に行きたくて進学をしました。後で分かったことですが、かなりギリギリの点数で合格していました。入試当日の国語の記号問題が全てあっていたことが合格を引き寄せたと今でも思っています。(国語が苦手であった自分としては、当時通っていた昴和田校の先生に感謝しかありません。)

高校3年間の思い出

第一に浮かぶのは部活のサッカーです。小・中学校のときは弱小チームだったので、一度でいいので強いチームでサッカーをしたいという思いで、サッカーに打ち込みました。下手なりに努力はしました。レギュラーになれることはありませんでしたが、3年間最後まで諦めずにできたのは、同級生のおかげでした。今でも悔いは残っていません。
第二に浮かぶのは、朝5:30に起床し、6:18五位野駅発のJRに乗って中央高校に通ったことです。通学時間は片道約一時間(自宅から五位野駅まで10分、JRで30分、鹿児島中央駅から中央高校まで15分)、中学校のときの友人と一緒に三年間通いました。時間を有効に使うために、JRの中で日々題を終わらせたり、英語の小テストの勉強をしていました。(とはいうものの、宇宿駅くらいからは眠くて寝ていました・・・)

大学生活

自分の勉強不足のため、教育学部のある国公立大学への進学はできませんでした。しかし、不合格になったときに、自分を見つめなおす時間を作り、「浪人か?私立大学に行くか?」を真剣に悩みました。手続き終了の二日前に、大分県の別府大学に行くことを決めました。そのときの自分は、「浪人よりも、次のステージで夢をかなえよう」でした。別府大学に進学した理由は、歴史が好きで専門的な勉強をしてみたかったということと、教職課程のカリキュラムがあったからです。大学での勉強はそこそこしましたが、コンビニや旅館でのアルバイトを積極的にしました。20年以上たった今でも、別府に遊びに行ったら顔を見せに行き、自分の現状報告をしたりします。(自分が働いていたところはもう別な店舗等になっていますが・・・)
そして19歳のときに「サッカーの審判免許取得」が自分の人生を大きく変えたことだと言っても過言ではありません。初めはサッカーショップの知り合いに誘われたから続けていたことが、審判の楽しさや難しさを勉強する中で40歳になった今も現役で続けられています。

株式会社 昴での仕事

鍵谷 謙吾さん

鍵谷 謙吾さん

鍵谷 謙吾さん

延岡校~伊集院校~川内北校と赴任してきて、現在は14年目を迎えています。一番の思い出は、自分が中学校のときに和田校でお世話になった数学の先生と一緒の職場になったことでした。そして自分が教室責任者になり、「子どもたちのために」をモットーに、中学入試や高校入試の受験指導はもちろんのこと、学校のテストで良い結果を出すためにどのようにしていくのかなど、生徒・保護者と二人三脚で行っています。生徒たちが目標を達成したときに嬉しい顔を見ることができるときが一番、この仕事をしていて良かったと思う瞬間です。いつも生徒たちには、「結果を出すためには、他の人よりも何倍も努力をする必要がある」ことが大事だと話をし、生徒たちと接しています。常に全力で向き合っています。

サッカーの審判・インストラクターとして

19歳から始めた審判活動ですが、現在も審判活動は続けています。これ以外に、36歳からは広報活動としてHPに活動報告を掲載したり、39歳からは2級インストラクターとして、若手育成の手伝いをしています。最近ではシニアの審判委員長にもなり、本業の仕事以外も充実した日々を送ることが出来ています。

第58回同窓会総会・懇親会に向けて

懇親会は2019年以来、4年ぶりの開催です。テーマは「さいかい」です。これは、同窓生との「再会」、懇親会を「再開」することを掛けています。「今日参加して良かった。また来年も参加しよう」と言ってもらえるように、参加頂ける皆様が笑顔で、楽しんでもらえるようにするため、準備中です。8月12日(土)を楽しみにしていてください。同窓生の皆様の参加をお待ちしています。

後輩・現役生へのメッセージ

どんなことにおいても、楽しいこと、うれしいこと、苦しいこと、悔しいことが今後も色々でてきます。苦しいことや悔しいことから逃げ出すことをせず、それを楽しいことやうれしいことにするためには、「他の人よりも何倍も努力をする必要」があります。「努力は決して結果を裏切らない。」

中村 敏也(18期生)

更新日時:2020年01月30日

中村敏也さん

氏名 中村 敏也
卒業期 18期生
職業 株式会社高島屋 法人事業部

鹿児島中央高校に進学した理由

小学校から中学校まで、勉強もせずに明けても暮れても野球漬けでした。
中学3年生の時の秋の県大会での中央高校野球部の活躍を見たのが中央高校を選んだ理由でした。

在校時の思い出

入学してしばらくして、当時鹿児島県の陸上競技の強化部長をし、中央高校の教え子も多くの優秀な選手を育てていらっしゃった陸上部顧問の竹之内宏先生との出会いがありました。
野球を続けるつもりが、気がつけば陸上部へ入部。
すっかり竹之内先生の術中に はまってしまった私は、陸上競技に没頭していきました。
午後から公欠で授業を抜け出して鴨池の陸上競技場で練習することも多く、ますます勉強から遠ざかる日々(汗)。陸上部の仲間の多くは限られた時間で勉強もしっかりしていましたが、私は没頭するタイプでした(笑)。
竹之内先生が権限を最大活用し、私など陸上競技初心者なのに、県や九州の強化合宿への参加や実業団に出向いての練習、県下一周駅伝の鹿児島市チームの練習に加わるなどさせてくださいました。
「お前はやれば出来る。出来るんだ!」と繰り返し言われ、だんだんその気になっていきました(笑)。
陸上部の仲間とはとても長い時間を共に過ごし、お互いのことをほぼ全て知り合う仲でした。
仲間は今も宝物です。
恩師・竹之内宏先生との出会いも、その後の生き方に大きく影響しました。

大学進学から就職まで

神奈川大学経済学部経済学科に進学しました。
入学と同時に陸上競技部に入部。私の専門種目は800mで、高校の時に竹之内先生は私が800mで強くなれるように長い距離やスピード練習を課していましたが、大学では「箱根駅伝だろ。20kmを走れなきゃ!」と指導され、800mの練習とは程遠い練習メニューに困惑もしました。
神奈川大学は箱根駅伝に今年で51回出場していますが、私が入学する数年前から出場が途絶えており、箱根駅伝出場経験者の監督やOBたちが必死でした。
結局私も4年間箱根駅伝の予選会を走りましたが、チームが本戦に出場することは叶いませんでした。
国際金融論のゼミでしたが、教授の勧めの銀行には教授の書いた本を持って役員にご挨拶に行くだけで、試験は受けませんでした。
就職は百貨店の株式会社高島屋へ。
就職先を考えたときに、大学所在地の横浜で絶対的地域一番店の高島屋を最初に思いついたのが第一志望にしたきっかけでした。また、百貨店はあらゆる物を売ることが出来、そのとき旬な売れるものを常に売っていけば安泰だなと思いました。今はそういう時代でなくなってきているのは皆様もご存じの通りです(汗)。

私の転機、そして今

中村敏也さん

中村敏也さん

中村敏也さん

百貨店では売場に配属されるものと思っていましたが、私は入社と同時に今も所属する法人事業部という部署へ配属になりました。
主に、企業のセールスプロモーション活動のお手伝いをする部署です。私の社歴の半分近く携わってきたのは、某飲料メーカーのペットボトルや缶コーヒーにベタ付けされるキャラクターのフィギュアやミニチュアカー、応募抽選のコート(防寒着)や家電・音響機器などのオリジナルの景品を版権者への交渉から商品開発、生産、納品までをプロデュースするような営業の仕事です。
ほぼ100%海外生産を年間数十億円コンスタントに受注し続けていると、納期遅れや仕様違いなど大きなトラブルがいくつもあったり、激しく厳しい仕事でしたが、仲間と頑張り、乗り切ってきました。
しかし、飲料メーカーがベタ付け景品や応募抽選のキャンペーンをほぼ実施しなくなり、私は別の担当になりました。
そして私には少しだけ時間が出来るようになり、考える余裕も生まれました。
そうやって駆け抜けてきたサラリーマン人生でしたが、気がつけば自分もいい年齢になっており、これからは自分を育んでくれた両親や幼稚園から大学にまで恩返し活動をしていこうと思い、今は大学の後輩たちへの支援活動や高校の同窓会のお手伝い、故郷鹿児島関係への微力ながらの支援をさせていただいています。
さらに昨年秋からは、30年も封印していたランニングを始めました。恩返し活動で連日忙しいのですが、市民マラソンに出場したり、練習の時間も作ることにより、これまでとは違う多忙な日々を過ごしています(笑)。

後輩・現役生徒へのメッセージ

高校や大学時代、さらには社会人になってからも、そのときに自分が何をすべきかを自ら考えて行動してください。そのときにしか出来ないことはいくつもあります。勉強嫌いだった私が本当は言えることではありませんが、勉強もそうですね。そして、ご両親がお元気なうちにたくさん孝行してくださいね。

松下 愛(43期生)

更新日時:2019年09月20日

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氏名 松下 愛
職業 株式会社 南日本放送(MBC) レポーター
部活動 バスケットボール部

鹿児島中央高校に進学した理由

大学進学を考えていた中で、「鹿児島中央高校」という学校ブランドに憧れがありました。

そして、憧れのバス通学♪と思い受験を決めましたが、受験直前の模試まで合格判定はギリギリ!同じ塾の仲間と、夜遅くまで必死に受験勉強を頑張った思い出があります。

在校時の思い出

高校時代、仲の良かった化学の先生から私が呼ばれていたニックネームは「体育」!!
高校3年間は、とにかく楽しかった記憶しかありません。学校の成績は、授業についていくのがやっとのレベルでしたが、唯一みんなに得意だと自慢できた教科が「体育」でした。先生にニックネームの由来を聞いてみると、体育祭のリレーを走っていた私の足が速かったから…だそうです。個人的には気に入っていましたが、私が「体育」と呼ばれるのを周りが不思議そうな目で見ているのは面白く、たま~に恥ずかしかったことを覚えています(笑)

部活動は、小学校から続けていたバスケットボール部に入部。3年間切磋琢磨しあった仲間は今でもみんな仲良しで、定期的に連絡を取り合って、食事に行ったり遊びに行ったりしています。

大学進学から就職まで

小さい頃からスポーツをしていたことがきっかけで「スポーツ栄養学」に興味をもちました。
まずは管理栄養士の資格を取得するため、栄養学を学べる鹿児島純心女子大学に進学。卒業時に国家試験を受け、なんとか合格できました。卒業後は委託給食会社に就職して、栄養士の基礎となる業務を日々行っていました。

私の転機、そして今

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自分のスキルを上げたいと思い、栄養士として働いた会社を退職して転職活動を始めました。
「仕事が見つかるまで!」と飲食店でアルバイトを始めたのですが、仕事に慣れてきた頃、MBCのテレビ取材を、店のスタッフ代表で私が受けることに…。撮影の合間に「レポーターの仕事は、県内各地に足を運んで、それぞれの分野で活躍する人たちに話を聞き、それを伝えること。」という話を聴きました。その時、「この仕事をすることで自分の可能性を大きく広げられるかも…。そして何より楽しそうだ!」と思い、翌年、MBCラジオのポニーメイツ試験を受けました。好奇心旺盛な性格で、メディアの仕事にも興味があったので、自分の知らない世界を見られるかも!とワクワクしたことを覚えています。試験に合格した時、「夢を応援するよ」と背中を押して送り出してくれたアルバイト先の方々には、今でも本当に感謝しています。

ポニーメイツとして活動させていただいた2年間は、毎日たくさんの出会いがありました。ポニーメイツを卒業した今も、レポーターとして仕事を続けていて、憧れのプロスポーツ選手にインタビューさせていただいたり、栄養士の資格を活かして料理コーナーを担当させていただいたり、「これまで努力してきた事」や、「好きな事」、「自分の夢」が仕事に繋がって、楽しい毎日を送れていることに日々幸せを感じています。

後輩・現役生徒へのメッセージ

何も考えずに毎日を過ごしていると、時間はあっという間に過ぎていきます。人との出会いやご縁を大切に、今しか出来ないことは悔いを残さないよう、何事にも全力でチャレンジしてください!

私もまだまだ未熟なので、人としてもっと成長できるように、これからも努力を続けていきます。

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